討ち入りまでとは? わかりやすく解説

討ち入りまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:19 UTC 版)

堀部武庸」の記事における「討ち入りまで」の解説

武庸は江戸詰藩士奥田重盛武具奉行馬廻150石)、高田郡兵衛馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許筆頭家老大石良雄面会篭城さもなくば義央への仇討主張したが、良雄からは浅野長広による浅野再興優先することを諭されて、赤穂城明け渡し見届けた後、武庸らは江戸に戻ることとなった。 武庸はそれ以降強硬に義央への敵討主張江戸急進派リーダー格となり、京都山科隠棲した良雄に対して江戸下向するよう書状送り続けた8月19日9月21日付け書状では「亡君が命をかけた相手見逃して武士道立たない。たとえ大学様に100万石が下されて兄君あのようなことになっていては(浅野大学も)人前出られないだろう」とまで主張良雄は、武庸ら江戸急進派鎮撫すべく、9月下旬原元辰300足軽頭)、潮田高教200絵図奉行)、中村正辰100祐筆)らを江戸へ派遣続いて進藤俊式400足軽頭)と大高忠雄20石5人扶持腰物方)も江戸派遣した。しかし彼らは全員武庸に論破されて急進派加わったため、良雄自らが江戸へ下り、武庸たちを説得しなければならなくなった元禄14年11月10日1701年12月9日)、良雄と武庸は、江戸三田東京都港区三田)の前川大夫宅で会談及んだ良雄は、一周忌となる元禄15年3月14日1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。 しかし帰京した良雄主君・長矩の一周忌過ぎて決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び良雄面会するために武庸は、元禄15年6月29日1702年7月23日)に京都入った事と次第によっては良雄切り捨てるつもりだったともいわれており、実際、武庸は大坂にもよって元辰を旗頭仇討ち決行しようと図っている。そのようななか、7月18日8月11日)、長広浅野宗家への永預け決まり浅野再興絶望的となると良雄覚悟決めた京都円山に武庸も招いて会議開き明確に仇討ち決定した。武庸はこの決定江戸同志たちに伝えるべく、京都出て8月10日9月1日)に江戸へ帰着し12日3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定伝えた

※この「討ち入りまで」の解説は、「堀部武庸」の解説の一部です。
「討ち入りまで」を含む「堀部武庸」の記事については、「堀部武庸」の概要を参照ください。

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