討ち入り日の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。 これは、吉良上野介がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである。 横川宗利は、三島小一郎という変名で堀部武庸宅に居候。吉良邸の茶会が開かれる日を茶坊主の手紙を盗み読みして、「茶会は十四日」と大石に報告し討ち入り日が決まった。中央義士会は「大高が山田宗徧から情報を得たり、大石が羽倉斎から日程を聞きだしたという話よりは信憑性が高い。おおむね事実である」としている。また、大石内蔵助の一族である大石三平からも同日の情報を得て間違いないと判断したのであった。なおこのことで、無人系大石氏は津軽信政の不興を買い放逐、のちに讃岐国高松藩松平家に仕えている。 また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり同じく6日に吉良邸での茶会があるとの情報をつかんでいたが延期になってしまったという。しかし、宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない。
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