計画発起当初
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 18:37 UTC 版)
1912年(大正元年)7月30日、船橋町の藤田栄一ら50名が発起人となり、船橋町と豊四季村柏の間を結ぶ軽便鉄道を出願した。13マイル10チェーンの蒸気動力によるもので、路線は国鉄船橋駅を起点に八栄村・鎌ケ谷村・風早村・土村・千代田村を経由し、豊四季村で国鉄常磐線を乗り越え柏駅で千葉県営鉄道野田線に接続するという現在の東武野田線とは東側にずれたルートであった。国鉄や千葉県営鉄道に直通させるため軌道幅は狭軌(1067mm)を採用。株式会社として本社は船橋町に置き、資本金40万円の計画であった。 申請書に署名した発起人は14名で、そのうち13名が沿線在住者、1名が東京市牛込区の住人(岡本文平)で主任技術者の地位の、いわゆる鉄道技術者であった。またそれに添付された発起人名簿には、政友会系県議を中心とした沿線地域外などの住人の名も書かれている。 また工事費用のうち車両費の割合が少ないという指摘を受けたが、収支概算書には資本金に対し1割の純益が見込まれていたためこのまま処理して差し支えないということとなった。
※この「計画発起当初」の解説は、「船橋鉄道」の解説の一部です。
「計画発起当初」を含む「船橋鉄道」の記事については、「船橋鉄道」の概要を参照ください。
- 計画発起当初のページへのリンク