観相のための来迎図
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「阿弥陀聖衆来迎図」の記事における「観相のための来迎図」の解説
寛和元年(985年)、源信(恵心僧都)は『往生要集』を著し、厭離穢土・欣求浄土を唱え、極楽往生のための具体的な道筋を示した。『往生要集』が日本の宗教、思想、文化に与えた影響は大きく、凡夫でも阿弥陀如来を信仰すれば極楽浄土へ往生できるとするその教えは、末法思想の流布とも相まって、浄土教信仰の発展をうながした。平安時代の浄土教においては、天台教学に立脚した観相念仏、すなわち、阿弥陀如来の相好を心に想起することが重視されたため、観相の助けとなる阿弥陀如来の彫像や画像が多数作られ、貴族は競って阿弥陀堂を建立した。また、信仰を同じくする人々が集まって経典の読誦などを行う往生講が組織された。こうした往生講や念仏講の本尊として来迎図が用いられた。 阿弥陀の信仰者は、臨終に際し、阿弥陀像を安置し、阿弥陀の指と自分の指とを五色の糸で結び、極楽往生を祈念した。こうした臨終行儀に画像が用いられるのは鎌倉時代以降であり、平安後期においてはこうした場合には阿弥陀の彫像を安置するのが一般的であった。したがって、平安後期の来迎図は臨終行儀のためではなく、生前の信仰生活のために用いられたものであった。 当麻曼荼羅や平等院鳳凰堂壁扉画に描かれた九品来迎図は、斜め構図であり、飛雲に乗った阿弥陀聖衆は斜めに下降し、往生者のもとへ向かっている。しかし、往生講などの本尊として用いられた来迎図は、このような斜め構図ではなく、観相念仏の助けとなる正面向き構図のものであったと考えられている。高野山の阿弥陀聖衆来迎図(もとは比叡山伝来、平安後期)は、こうした恵心流の観相念仏の本尊として使用されたものと思われる。九品来迎図のような斜め構図の来迎図が、画面下方に往生者の住居を描き、来迎を客観的に表現するのに対し、高野山の阿弥陀聖衆来迎図では、正面向きの阿弥陀如来を中心に、諸菩薩を画面一杯に配し、絵を見る者は阿弥陀と直接対峙することになる。 平安時代にさかのぼる来迎図の作例としては、京都・安楽寿院の阿弥陀聖衆来迎図(正面構図)、滋賀・浄厳院の阿弥陀聖衆来迎図(斜め構図)がある。鎌倉時代の作例としては、正面構図のものとして福井・安養寺の阿弥陀二十五菩薩来迎図、高野山・蓮華三昧院の阿弥陀三尊像、斜め構図のものとして京都・知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図、滋賀・新知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図などがある。
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