視覚論の比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:58 UTC 版)
現代の視覚論では、「光」が視覚を媒介する。エイドラや形相、または視線とは異なって、光は視覚対象とも観測者とも独立に存在して、独自の法則で動いている。視覚像は、この光から眼と脳・神経で生成したもので、すでに存在した「像」が外から運ばれてきたのではない。 これに対して、古代の原子論のエイドラは、視覚対象の複製であって、「像」をすでに含んでいる。よって、エイドラを取り込んだ瞬間に対象の状況が一挙に認識される。外送理論でも「エイドラ」ほどではないにせよ、対象の整った像は眼の外に既に存在していて、それが眼に取り込まれる。双方とも触覚とのアナロジーをとったことを含め、視覚の成立の仕組みは似た部分が多かった。視覚の性質の説明においても、例えば「遠方のものほど像が不鮮明になり、四角形の塔が丸く見えるのはなぜか」といった問題は度々取り上げられたが、原子論でもストア派の外送理論でも、長い空間を超える際の劣化で説明された。そして、眼に像が届いたときには、像そのものとは別に、距離についての情報も添付されて眼に入る。ただし、原子論の説明の方が機械論的であった。 一方、ユークリッドらの幾何学的な外送理論は、眼と対象の表面の各々の点を結ぶ線を考察することで、形状や方向、大きさなどの知覚の分析を可能になっており、様々な現象を緻密に説明することができた。だが、原子論者の理論は、これと結びつくことができなかった。ガレノスの理論については、幾何学的な理論と区別されることも多かったが、ガレノス自身は両者を併記して矛盾したものとはせず、9世紀のキンディーらも幾何学的な視覚論とガレノス的な議論をともに用いる。 原子論も外送理論空間も、視覚対象と眼の間の空間を超える仕組みの説明は困難がつきまとった。双方とも、現実にそのようなプロセスが起きうるのか疑問が消えることはなく、前者の場合はエイドラが眼に的確に収縮して届く仕組み、後者に対しては、放出物またはその影響が遠距離に及ぶことへの疑問が繰り返し取り上げられた。また、多数の物体を多数の観察者が見ている状況の説明は、どちらにとっても問題が残った。この際、互いに「エイドラ」や視線が干渉しないのか、という問題はどちらの理論にも付きまとう批判だった。
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