西垣籌一とみずのき寮の教え子
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「日本のアウトサイダー・アート」の記事における「西垣籌一とみずのき寮の教え子」の解説
1964年(昭和39年)、日本画家の西垣籌一は、京都府亀岡市の知的障害者更生施設みずのき寮(現みずのき)に絵画教室をひらいた。のちに専用のアトリエを建設したが、最初は古い鶏小屋に筵をしいて教室とし、絵画指導を行った。西垣は1978年頃からプロの絵描きを育てる活動に変え、一時期は公募展に応募するなどもした。当初から、「何をどう表現するかの最も重要な部分」には踏み込まないものの、技術技法にはかなり踏み込んだ指導を行ったのが特徴である。そのために服部正や西村陽平は、みずのきの作家たちのことを、本当にアウトサイダー・アート、アール・ブリュットと呼んでよいのか疑問を投げかけている。その後、1987年(昭和62年)には東京霞ヶ関や京都で、1995年(平成7年)には横浜ポートサイドギャラリーにて、『「みずのき寮のアーティストたち」展』など多くの展覧会を催した。 みずのき寮の活動には、キュレーターの小出由紀子も関っている。小出は、膨大な作品の調査や整理をかって出た。1993年(平成5年)の巡回展「パラレル・ヴィジョン」展が世田谷美術館で開催され、同時に世田谷美術館の独自企画「日本のアウトサイダー・アート」展に寮に所属する小笹逸男、福村惣大夫、吉川敏明の作品が展示された。その縁で、アール・ブリュット・コレクションのキュレーター、ジュヌヴィエーヴ・ルーランが来所したときの案内役も、小出は務めている。その後小出は、アール・ブリュット・コレクションと掛け合って、コレクションに32点の寮生の作品を収め、作品を世界に知らしめることに一役買った。1998年(平成10年)に西垣は寮を離れ、2000年(平成12年)に死去したが、その後は西垣のアシスタントを務めていた谷村雅弘が、西垣の意志を継いで教室を主宰している。しかし、2013年には谷村もみずのきを離れている。。
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