西垣籌一とみずのき寮の教え子とは? わかりやすく解説

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西垣籌一とみずのき寮の教え子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 00:30 UTC 版)

日本のアウトサイダー・アート」の記事における「西垣籌一とみずのき寮の教え子」の解説

1964年昭和39年)、日本画家西垣籌一は、京都府亀岡市知的障害者更生施設みずのき寮(現みずのき)に絵画教室をひらいた。のちに専用アトリエ建設したが、最初は古い鶏小屋に筵をしいて教室とし、絵画指導行った西垣1978年頃からプロ絵描き育て活動変え一時期公募展応募するなどもした。当初から、「何をどう表現するかの最も重要な部分」には踏み込まないものの、技術技法にはかなり踏み込んだ指導行ったのが特徴である。そのために服部正西村陽平は、みずのきの作家たちのことを、本当にアウトサイダー・アートアール・ブリュット呼んでよいのか疑問投げかけている。その後1987年昭和62年)には東京霞ヶ関京都で、1995年平成7年)には横浜ポートサイドギャラリーにて、『「みずのき寮のアーティストたち」展』など多く展覧会催した。 みずのき寮の活動には、キュレーター小出由紀子も関っている。小出は、膨大な作品調査整理をかって出た1993年平成5年)の巡回展パラレル・ヴィジョン」展が世田谷美術館開催され同時に世田谷美術館の独自企画日本のアウトサイダー・アート」展に寮に所属する小笹逸男、福村大夫吉川敏明の作品展示された。その縁で、アール・ブリュット・コレクションキュレーター、ジュヌヴィエーヴ・ルーランが来所したときの案内役も、小出務めている。その後小出は、アール・ブリュット・コレクション掛け合ってコレクション32点の寮生作品収め作品世界知らしめることに一役買った1998年平成10年)に西垣は寮を離れ2000年平成12年)に死去したが、その後西垣アシスタント務めていた谷村雅弘が、西垣意志継いで教室主宰している。しかし、2013年には谷村もみずのきを離れている。。

※この「西垣籌一とみずのき寮の教え子」の解説は、「日本のアウトサイダー・アート」の解説の一部です。
「西垣籌一とみずのき寮の教え子」を含む「日本のアウトサイダー・アート」の記事については、「日本のアウトサイダー・アート」の概要を参照ください。

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