西原貫治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/11 13:23 UTC 版)
西原 貫治 | |
---|---|
生誕 | 1890年11月30日![]() |
死没 | 1975年9月11日(84歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1890 - 1945 |
最終階級 | ![]() |
西原 貫治(にしはら かんじ、1890年(明治23年)11月30日 - 1975年(昭和50年)9月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
広島県で生まれる。陸軍憲兵大尉・西原貫洞の二男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し、歩兵第11連隊中隊長に就任。
1922年(大正11年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、フランス駐在、軍務局課員、陸軍技術本部付、軍務局課員(徴募課)、朝鮮軍参謀、陸軍歩兵学校教官などを経て、1934年(昭和9年)12月、歩兵大佐に昇進した。
1935年(昭和10年)3月、陸軍習志野学校幹事に就任。歩兵第31連隊長、第8師団参謀長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し、再び習志野学校幹事となる。同校校長を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み第23師団長に親補され満州に駐屯し太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)11月、化兵監となり、教育総監部本部長事務取扱、第4軍司令官を経て、第57軍司令官として鹿児島県財部で本土決戦に備えていたが、その地で終戦を迎えた。1945年(昭和20年)10月、西部軍管区司令官となり、翌月、予備役に編入され、同年12月から翌年3月にかけて西部復員監を務めた。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
- 勲章
親族
脚注
参考文献
固有名詞の分類
- 西原貫治のページへのリンク