行政・自治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
仙台の町(まち)は道路をはさんで両側に町人が住む町屋敷が並ぶ地区(町人町)で、武家屋敷が並ぶ丁(ちょう)と区別された。町人町は町ごとに統治され、内部で自治を行なった。仙台の町には、上から任命される役人として検断・肝入が各1名置かれた。町の正規の構成員は幅六間を単位とする町屋敷を持つ者で、五人ごとに五人組を組織した。六間幅を一軒、その半分を半軒として、これを単位に町役という労役・税を負担した。町役には様々な名目があったが、労働力の提供と金銭の納付の大別して二種類があった。城下町の創建期には町人が総出で働くこともあったが、時代とともに金銭に変わる傾向があり、労役の場合も町が出した金銭で人足を雇って提供するのが通例となった。 大町では、統治・自治の単位としての町が、慶長10年頃(1605年)に大町一二丁目と大町三四五丁目という二つに分けられた。町列第一位の地位を引き継いだのは三四五丁目で、城に近い一二丁目は全体の中でも18番目の下位に置かれた。 三四五丁目の検断は青山家が、肝入は只野家が代々世襲した。青山には大町の中に屋敷が四軒、只野には屋敷が一軒与えられ、その屋敷に課される税は町の他の住民が負担した。いずれの家も米沢時代からの大町検断・肝入であって、古い昔に伊達氏に仕えた武士が町の支配を役目として委ねられたものである。町人でありながら帯刀を許され、組抜並の待遇で士分とされた。検断の青山は、他藩に対して大名主を称することを許された。 一二丁目は町列の18番目であった。他の町と異なり検断・肝入が置かれず、月行仕という役についた町人が輪番で行政事務を引き受けた。承応2年(1653年)に月行仕が廃止され、月行仕の一人だった米川家が年行仕として常任・世襲することになった。米川家の記録によると、かつて大町一二丁目は検断を持たないまま三四五丁目より上位に置かれたが、年行仕という役職を新たに設けたとき、他の町の検断との序列調整のために町の序列が下げられたという。また、天和元年(1681年)8月に守谷惣兵衛が肝入に就いてから、一二丁目にも肝入が置かれるようになった。米川家は、享保9年(1724年)から明和2年(1765年)にかけて、他の町と同じく検断という名で呼ばせてほしいと願い出たが、実らなかった。世襲後も、一二丁目の「町内」は年行仕と時として交渉・対立する自治的性格を強く持っていた。米川家は10代めの米川元直が享和3年(1803年)に国分町の検断に転じ、それからはそちらを世襲した。
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