藤吉の死とその後の岡崎汽船
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「岡崎汽船」の記事における「藤吉の死とその後の岡崎汽船」の解説
岡崎汽船は1923年(大正12年)、政府より主要中国2航路の運航を拝命し、同航路は同社のドル箱路線になった。1927年(昭和2年)の藤吉の死後も、婿養子の岡崎忠雄が会社を引継ぎ、岡崎合資会社と業務を統一して提携合併し、岡崎本店汽船部と改称した1937年(昭和12年)には、日中戦争が勃発して荷動きが一層の伸展を遂げ、さらに経営が拡大していった。1943年(昭和18年)初頭には閣議決定により、各海運会社の整理統合が政府の戦時特令として発せられ、 それに基づき同年7月、三菱商事の船舶部門が分離独立、所有船12隻の三菱汽船株式会社が設立されたのに伴い、岡崎本店汽船部が所有貨物船6隻を出資船として提供、三菱汽船と合併して合計18隻の船隊を保有する新会社を設立した。しかし太平洋戦争中は、軍に徴用された所有船の大半が戦没した。 1947年(昭和22年)9月26日、海運、銀行、保険業を営んでいた神戸の地方財閥であった岡崎財閥(株式会社岡崎本店)は、財閥解体第5次指定を受けて解散し、終焉を迎えた。 その後、戦時中、軍に徴用され、戦後に唯一生き残った貨物船日京丸が1949年(昭和24年)4月に返還されたものの、岡崎汽船(岡崎本店汽船部)は同年9月に設立された後身会社の日豊海運に業務が引き継がれ、企業として姿を消した。岡崎家は日豊海運においても、引き続き経営に参画している。
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