藤原利仁流富樫氏族坪内氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 07:10 UTC 版)
坪内氏は藤原利仁と輔世王女の息子の藤原叙用の後裔の加賀国守護で安宅の関の関守の富樫左衛門泰家の子の富樫長泰(庄九郎、藤三郎)の継嗣である富樫遠江守親泰(庄次郎光忠)の後裔富樫藤左衛門頼定(時定)を始祖とする。 富樫頼定は加賀国富樫郷より尾張国に赴き、犬山織田家に仕え、松倉城(現在は城跡を示す碑のみがある)を築城し城主となり始めて正式に坪内氏を称す。 また土豪の松倉城代前野又五郎忠勝(野府城城代を務め、坪内氏に仕え、縁組し、坪内城に居住したため坪内又五郎昌家の名跡を継ぎ、坪内又五郎忠勝と称し、前野氏流坪内氏の祖となる)と縁組し、土豪にも強い影響力を持っていた。 後に坪内氏は織田信長、豊臣秀吉に仕えた。しかし坪内利定は秀吉と不和になり徳川家康に召され仕えた。そして坪内氏は坪内光景(坪内但馬守光景)が大名になり関白豊臣秀次に仕えるが、秀次謀反を弁護した罪で秀吉により一族が処罰され、坪内氏と秀吉との決裂は決定的となる。坪内利定は鉄砲隊を指揮し功があり、本拠地を新加納陣屋に移し大身旗本として大いに繁栄し現在に至る。 坪内姓は富樫泰家(重純)が代々奥州前野庄を領有し、一時前野氏を私称したが、子の富樫泰景が奥州前野庄の家督を継ぎ、孫の富樫氏景が奥州出羽富樫氏の祖となり、泰家(重純)は後に加賀国に戻り本拠地としその地で没し、泰家(重純)の子の富樫庄九郎長泰は奥州前野庄より尾張に居住し尾張富樫氏の祖となり、その家督を継いだ富樫親泰(光忠)の後裔の富樫安房が足利義満に仕え、富樫安隆が中務大輔として足利氏に仕え、富樫昌家の子の国枝(顕親)の養子となり富樫氏嫡流に入り、斯波氏家臣団として越前国坂井郡丸岡の坪ノ内、現福井県坂井市丸岡町坪ノ内(坪内氏の名字の地)に居住したことに由来する。 加賀一向一揆やその後の混乱の中で富樫長泰以来の領地のある尾張国に赴き、尾張国中島郡(愛知県一宮市)に坪内頼定が一族と居住した。 犬山織田家に仕え、松倉城主になった藤原氏流富樫藤左衛門頼定が正式に坪内氏を名乗り、坪内氏本流となる。
※この「藤原利仁流富樫氏族坪内氏」の解説は、「坪内氏」の解説の一部です。
「藤原利仁流富樫氏族坪内氏」を含む「坪内氏」の記事については、「坪内氏」の概要を参照ください。
藤原利仁流富樫氏族坪内氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:41 UTC 版)
「坪内広綱」の記事における「藤原利仁流富樫氏族坪内氏」の解説
藤原利仁流富樫氏族坪内氏は藤原利仁と輔世王女の息子の藤原叙用の後裔の加賀国守護で安宅の関の関守の富樫左衛門泰家の子の富樫長泰(庄九郎、藤三郎)の継嗣である富樫遠江守親泰(庄次郎光忠)の後裔富樫藤左衛門坪内頼定(時定)を始祖とする。 富樫頼定は加賀国富樫郷より尾張国に赴き、犬山織田家に仕え、松倉城(現在は城跡を示す碑のみがある)を築城し城主となり始めて正式に坪内氏を称す。後に坪内氏は織田信長、豊臣秀吉に仕えた。しかし坪内利定は秀吉と不和になり徳川家康に召され仕えた。そして坪内氏は坪内光景(坪内但馬守光景)が大名になり、関白豊臣秀次付の筆頭家老になるが、秀次謀反を弁護した罪で秀吉により一族が処罰され、坪内氏と秀吉との決裂は決定的となる。坪内利定は関ヶ原の戦いで家康軍本隊の鉄砲隊を指揮し功があり、本拠地を新加納陣屋に移し大身旗本として大いに繁栄し現在に至る。 坪内姓は富樫泰家(重純)が代々奥州前野庄を領有し、一時前野氏を私称したが、子の富樫泰景が奥州前野庄の家督を継ぎ、孫の富樫氏景が奥州出羽富樫氏の祖となり、泰家(重純)は後に加賀国に戻り本拠地としその地で没し、泰家(重純)の子の富樫庄九郎長泰は奥州前野庄より尾張に居住し尾張富樫氏の祖となり、その家督を継いだ富樫親泰(光忠)の後裔の富樫安房が足利義満に仕え、富樫安隆が中務大輔として足利氏に仕え、富樫昌家の子の国枝(顕親)の養子となり富樫氏嫡流に入り、斯波氏家臣団として越前国坂井郡丸岡の坪ノ内、現福井県坂井市丸岡町坪ノ内(坪内氏の名字の地)に居住したことに由来する。
※この「藤原利仁流富樫氏族坪内氏」の解説は、「坪内広綱」の解説の一部です。
「藤原利仁流富樫氏族坪内氏」を含む「坪内広綱」の記事については、「坪内広綱」の概要を参照ください。
- 藤原利仁流富樫氏族坪内氏のページへのリンク