蕗沢紀志夫とは? わかりやすく解説

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蕗沢紀志夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/15 08:47 UTC 版)

蕗沢 紀志夫(ふきざわ きしお、1901年[1][注釈 1] - 1981年[2][3][注釈 2])は、日本の応用化学者、翻訳家。出生名は、蕗沢[注釈 3]喜芳(ふきざわ のぶよし)[4][5]。同じ翻訳家の蕗沢忠枝は、紀志夫の妻にあたる[6]

来歴

長野県東筑摩郡芳川村[7]野溝[8](現・松本市[9])出身。東京高等工業学校附設工業教員養成所・応用化学科を卒業した後、学校現場で理科・化学を教えるとともに、30代のころに高名な応用化学者たちとの共著書を著していることから、専門性に秀でた化学者であったとうかがえる。30代の終わりごろ、戦時中に『国策線上の理化教材』を著す中で「理化教育の国策化」[注釈 4]を教育目標に掲げており、当時の皇国教育の立場に立っていた。敗戦後、民主教育の導入に伴う教師たちの思想的転向が一般的であった中で、蕗沢も例外でなかったと考えられる。

「蕗沢紀志夫」と改名[注釈 5]してからの翻訳家活動は50代に始まっていて[注釈 6]、前半生とは異なりまるで別人のようであるが、旧東京工業大学同窓生らで作る蔵前工業会の会員名簿に、蕗沢紀志夫の旧名「喜芳」が併記されていて[4][5]、喜芳と紀志夫が同一人物であることがわかる[注釈 7]。蕗沢紀志夫として手がけた翻訳は、内容においてアメリカ人女性の自立論、ナチスに迫害されたユダヤ人女性の記録のほか、小児マヒの少女の生涯などに渡っており、女性に対して視線が向けられたものが多い[注釈 8]

略歴

有効な生年の検討

次の複数の異なる生年または生年月日を記した資料が存するが、蕗沢本人名義で出版する著作物にある略歴の生年(1901年)が最も確かなものであると考えられる。

  • 1901年とするもの - 《出典》本人名義の翻訳出版『第二の青春――中年男の反抗』にある訳者略歴[1]
    1901年生まれの場合、長野師範学校の卒業時年齢が19歳となり、卒業年齢として整合性が認められる。
  • 1898年7月15日とするもの - 《出典》長野県人東京聯合会『大信濃』中、現代人物編の「蕗澤喜芳」評伝[8]
  • 1903年7月15日とするもの - 《出典》『著作権台帳(第26版 本冊)』[3][注釈 2](『文化人名録』では、昭和40年版〈第12版〉も日付はないものの「明治36年7月」と記載[26]。かつては昭和31年版〈第5版〉[30]まで「明治41年7月15日」と記載していたが、次の昭和32年版〈第6版〉[31]で「明治36年7月15日」と暦年を変更した。)。
  • 1906年7月15日とするもの - 《出典》『信毎年鑑(1979年版)』[9](かつては月日の限定はないが『1966年版』[25]で「明治31年」と記載していた)。
    1906年7月生まれであれば、1921年3月長野師範学校卒業時の年齢が14歳になってしまい、不相当である。
  • 1908年とするもの - 《出典》『国立国会図書館著者名典拠録』[32](Web NDL Authorities[2]のデータもこれに倣う)。
    • 1908年7月27日とするもの - 《出典》『人事興信録(第23版 下)』[6]

なお、それぞれ生年の記載が異なるにもかかわらず、誕生月を記す場合は7月となっている。

著書

中には、編集に携わったものを含む。

蕗沢(蕗澤)喜芳名義

このほか、『女子教科 日常化學』(光文社、1931年)があった[34][注釈 15]。また、『昭和家事教科書』(三省堂、初版1932年 - 修正7版1941年)の執筆者(のうちの1人)であるとされている[8][注釈 16]

翻訳

蕗澤喜芳名義

蕗沢紀志夫名義

このほか『文化人名録』によれば、パール・バック『女の館(上・下)』(文藝出版社、刊年不明)があったと推定される[30][31][注釈 15]

脚注

注釈

  1. ^ 複数の異なる生年または生年月日を記した資料が存するが、蕗沢本人名義で出版する著作物にある略歴の生年(1901年)を最も有効なものと判断した。詳細は「有効な生年の検討」節で記述。
  2. ^ a b 『著作権台帳(第26版 本冊)』では、偶然かもしれないが、死没日が生誕日と同じく7月15日と記載されている。
  3. ^ 蕗澤とも表記される。
  4. ^ 1938年に国家総動員法が施行され、やがて軍需部門など国内の後方支援体制を女性が主となって担っていくようになる流れにあって、女学校教育を通じて理・化の専門知識を備えた人材育成を図るという方針を主張したのは時勢に忠実であったと評価できる。
  5. ^ a b 紀志夫 きしお」という名は、一見すると、旧名の「 喜芳 のぶよし」を重箱読みした「きよし」の音を並び替えたかのようであるが(「お」と「よ」は母音が同じ)、50代始めごろに改名した時よりも、30代中ごろに子に付けた名前「 喜志夫 きしお[6](1文字目の「喜」が父子で同じ)が先にあり、「喜芳」→「喜志夫」→「紀志夫」の順で因果関係があると考えられる。
  6. ^ なお、先に旧名の当時、戦時下の42歳ごろに「蕗澤喜芳」として翻訳を1冊(『發明物語』)刊行していた。内容は理科系のものであり、翻訳を行った動機は応用化学者としてのものと考えられる。
  7. ^ 『大信濃』の「蕗澤喜芳」評伝[8]の中にも「忠枝夫人との間に一男二女がある(以下省略)」との記述があり、『人事興信録』(第23版 下)[6](ただし子は1人増)にある蕗沢紀志夫の家族像(ただし子は1人増)と符合する。
  8. ^ 紀志夫が翻訳家として後半生を送ったことと、それよりも先に妻の忠枝が自立した翻訳家であったこととの間に何らかの関係があるのでないかとの想像はできるが、忠枝の方は主に推理小説を取り扱っていて、直接的な因果関係は容易に見出せない。翻訳を初めて出版した時期は、忠枝が1941年であるのに比して、紀志夫は1943年(喜芳名義)であって忠枝の方が少し早い。忠枝は、大学英文科を卒業してから翻訳家として自立するまでの間、内務省勤務などで翻訳の仕事に携っていたとも考えられる。
  9. ^ 新所属先は、住所地の「板橋區練馬南町[8]」(現・練馬区)から遠隔の地にあり、左遷人事によるものでないかとの疑いが生じてくる。たとえば、蕗沢は前年に敵性語の英語からの翻訳作品である『發明物語』を出版しており、このこととの関連がある可能性も考えられる。
  10. ^ 1956年3月刊『第二の青春』の訳者略歴によるものなので、それ以前のこととなる。なお、1949年度に始まったガリオア留学については、参加年齢の上限が40歳であり、蕗沢の場合はこれを超えることになるので当てはまらない。
  11. ^ 都立第十三高等学校は翌年(1949年)の12月20日に現校名へ改称。これに伴い、同校定時制は東京都立豊多摩高等学校阿佐ヶ谷分校と改称[22](ただし、中には従前の「定時制」のまま載せていた名簿がある[23])。
  12. ^ 同校の定時制課程の開始は6月1日であるが、就任日は3月31日である。
  13. ^ 同大学芸術学部「教授」と記したものがある[25][26]。他方、それらより前の年になるが、「講師(映画特講)」と記したものもある[27][28]
  14. ^ 著者序文の中で「理化教育の国策化」を目標に掲げている。なお、当時は東京府立高等家政女学校教諭[16]
  15. ^ a b 国立国会図書館サーチ(NDL Search)では該当がない(2025年8月時点)。
  16. ^ すべての版でないが、NIER近代教科書デジタルアーカイブで検索し得る版のデジタル画像の本を閲覧したところ、現代の教科書にある執筆者一覧のような記載がなく、執筆者を確認できない(奥付の著作者は「三省堂編輯所」と記載。また『昭和家事教科書教授資料』にも執筆者の掲載なし。)。

出典

  1. ^ a b c 第二の青春 1956, 奥付頁に掲載の訳者略歴.
  2. ^ a b Web NDL Authorities - 蕗沢紀志夫
  3. ^ a b 著作権台帳 文化人名録』(第26版 本冊)社団法人日本著作権協議会、2001年10月、1755頁。国立国会図書館書誌ID: 000003621825 
  4. ^ a b c 『会員名簿』(昭和41・42年用)社団法人蔵前工業会、1965年12月27日、304頁。NDLJP:11622694/176 氏名「蕗沢紀志夫」の右側に「旧名 喜芳」と記載(卒業年度別の部35頁でも同じ)。在学時の氏名は「蕗沢喜芳」であったことがわかる。なお、卒業年度別の部35頁では、1人前の姓「堀家」につられて「蕗沢」でなく「蕗紀志夫」との誤植になっている。
  5. ^ a b c 蔵前工業会 1965, p. 35, 卒業年度別の部.
  6. ^ a b c d e f 人事興信所 編『人事興信録』(第23版 下)人事興信所、1966年5月16日、ふ之部12頁。NDLJP:3044976/652 なお、忠枝の生年を大正元年でなく大正4年と記載している点など誤りが見受けられる。
  7. ^ a b 『卒業生名簿』(昭和25年)信州大学教育学部本校、1950年11月17日、39頁。NDLJP:9542779/29。「東筑(摩郡)芳川(村)【引用者注:カッコ名は引用者が補筆】」 目次のページにある凡例によれば、名簿中の上欄の記載項目は出身地である(中欄は勤務先および住所地)。在学時の氏名は「蕗沢喜芳」。
  8. ^ a b c d e f g h 『大信濃』長野県人東京聯合会、1940年6月1日、1513頁。NDLJP:1107746/744 
  9. ^ a b 信濃毎日新聞社開発局出版部 編『信毎年鑑』(1979年版)信濃毎日新聞社、1978年10月1日、560頁。NDLJP:9537745/284 
  10. ^ 『長野県職員録』(大正14年5月1日現在)長野県知事官房、1925年6月10日、178頁。NDLJP:905148/106 
  11. ^ 『長野県職員録』(大正15年8月1日現在)長野県知事官房、1926年8月30日、228頁。NDLJP:927684/125 
  12. ^ 東京府立第一高等女学校 編『創立第四十周年記念誌』東京府立第一高等女学校、1928年10月28日、118頁。NDLJP:1141672/88 
  13. ^ 家庭洗濯と染色 1930, 標題紙.
  14. ^ 鈴木清 編『東京府立第一高等女学校概覧』東京府立第一高等女学校校友会、1938年10月28日、57頁。NDLJP:1275877/33 
  15. ^ 『百年史』(本編)東京都立白鴎高等学校、1989年3月3日、230頁。NDLJP:13158470/128 旧名の「蕗澤喜芳」で記載。
  16. ^ a b c 内閣印刷局 編『職員録』(昭和13年1月1日現在)内閣印刷局、1938年2月25日、223頁。NDLJP:12315487/138 
  17. ^ 「敍任及辭令」『官報』第4051号、大蔵省印刷局、1940年7月9日、279頁、NDLJP:2960549/4 
  18. ^ 「敍任及辭令」『官報』第3993号、大蔵省印刷局、1940年5月2日、81-82頁、NDLJP:2960491/9 
  19. ^ 内閣印刷局 編『職員録』(昭和18年7月1日現在)内閣印刷局、1943年9月30日、244頁。NDLJP:12315618/171 
  20. ^ 「敍任及辭令」『官報』第5237号、大蔵省印刷局、1944年6月30日、431頁、NDLJP:2961739/8 
  21. ^ 「敍任及辭令」『官報』第5626号、大蔵省印刷局、1945年10月11日、75頁、NDLJP:2962129/2 
  22. ^ a b c 『豊多摩――創立50周年記念誌』東京都立豊多摩高等学校、1990年10月20日、318頁。NDLJP:13137580/168 職員一覧には旧名の「蕗沢喜芳」で記載。
  23. ^ 都市情報社 編『東京都公私立学校教職員録 昭和29年版』都市情報社、1953年12月20日、538頁。NDLJP:3035595/279 旧名の「蕗沢喜芳」で記載。
  24. ^ 錦城学園百年史編纂委員会 編『錦城百年史』学校法人錦城学園、1984年1月10日、297頁。NDLJP:12116642/154 「蕗沢紀志夫」で記載。
  25. ^ a b 信濃毎日新聞社調査出版部 編『信毎年鑑』(1966年版)信濃毎日新聞社、1965年10月1日、623頁。NDLJP:2980677/315 
  26. ^ a b 『文化人名録』(昭和40年版〈第12版〉)日本著作権協議会、1965年4月、03A 英米文学 39頁。NDLJP:8797886/74 
  27. ^ 大学職員録刊行会 編『全国大学職員録』(昭和36年版)広潤社、1960年12月20日、487頁。NDLJP:11581725/259 
  28. ^ 大学職員録刊行会 編『全国大学職員録』(昭和37年版)廣潤社、1962年9月15日、519頁。NDLJP:9577308/275 
  29. ^ 『日本大学芸術学部五十年史』日本大学芸術学部、1972年11月10日、356頁。NDLJP:12111591/197 
  30. ^ a b 『文化人名録』(昭和31年版〈第5版〉)日本著作権協議会、1956年1月、126頁。NDLJP:8797880/81 
  31. ^ a b 『文化人名録』(昭和32年版〈第6版〉)日本著作権協議会、1957年4月、138頁。NDLJP:8797881/89 
  32. ^ 国立国会図書館収集整理部 編『国立国会図書館著者名典拠録――明治以降日本人名』(上巻〈A~M〉)紀伊國屋書店、1979年4月25日、416頁。NDLJP:12192802/216 
  33. ^ 「檢定教科用圖書」『官報』第2930号、大蔵省印刷局、1936年10月6日、176頁、NDLJP:2959412/13 「檢定教科用圖書」『官報』第4439号、大蔵省印刷局、1941年10月24日、764頁、NDLJP:2960938/15 
  34. ^ 東京書籍商組合 編『出版年鑑』(昭和7年)東京書籍商組合、1932年6月、399頁。NDLJP:1264448/205 



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