興行の町繁華街としての両国広小路とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 興行の町繁華街としての両国広小路の意味・解説 

興行の町・繁華街としての両国広小路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 03:32 UTC 版)

両国広小路」の記事における「興行の町・繁華街としての両国広小路」の解説

江戸街中ポッカリと穴が開いたように空き地があれば、人は無断利用するのが当然で、すぐに目的外使用始まり仮設見世物小屋ヒラキ呼んだ)(現在の相撲飲食店含む)が立ち並び、「両国広小路」と「浅草寺裏」は、江戸一番の盛り場歓楽街)として、江戸時代期から明治時代初期通して繁盛した将軍鷹狩りに出るときなどは、両国全ての見世物小屋きれいに無くなって、本来の火除地の姿に戻った江戸三大広小路のひとつにあげられる。この姿は江戸東京博物館ジオラマ模型展示再現されている。 『江戸砂子』によると、まず辻講釈出たのが始まりで、次々と見世物小屋建ち飲み屋ができ、浅草観音付近思わせるほどの盛り場となった両国橋東西広小路には、髪結床水茶屋といった床見世のほかに、棒手振り屋台露店商などが立ち並ぴ、軽業手品浄瑠璃講談などの見世物小屋で賑わった。享保年間には両国広小路露店売り常設となり、安政ごろには小屋建ち並んでいたと思われる明治時代には卑俗な見世物小屋がたくさんあり、明治初年ごろには阪東村右衛門芝居(のちの中嶋座)、富田兄弟芝居(のちの明治座)、矢場辰の女芝居があり、いずれも粗末な小屋掛けであった年中大入りであった明治末には福宝堂活動写真館第七福宝館」ができ、両国広小路から薬研堀のあたりまで狭い横丁縦横にあり、飲酒屋や汁粉屋などあらゆる飲食店が軒を連ねたその他の両国広小路関連する風俗 うろうろ船 水垢離 両国花火 両国こういん坊主

※この「興行の町・繁華街としての両国広小路」の解説は、「両国広小路」の解説の一部です。
「興行の町・繁華街としての両国広小路」を含む「両国広小路」の記事については、「両国広小路」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「興行の町繁華街としての両国広小路」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「興行の町繁華街としての両国広小路」の関連用語

興行の町繁華街としての両国広小路のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



興行の町繁華街としての両国広小路のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの両国広小路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS