興行の町・繁華街としての両国広小路
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「両国広小路」の記事における「興行の町・繁華街としての両国広小路」の解説
江戸の街中にポッカリと穴が開いたように空き地があれば、人は無断利用するのが当然で、すぐに目的外使用が始まり、仮設の見世物小屋( ヒラキと呼んだ)(現在の相撲・飲食店含む)が立ち並び、「両国広小路」と「浅草寺裏」は、江戸一番の盛り場(歓楽街)として、江戸時代期から明治時代初期を通して繁盛した。将軍が鷹狩りに出るときなどは、両国の全ての見世物小屋がきれいに無くなって、本来の火除地の姿に戻った。江戸三大広小路のひとつにあげられる。この姿は江戸東京博物館のジオラマ模型展示で再現されている。 『江戸砂子』によると、まず辻講釈が出たのが始まりで、次々と見世物小屋が建ち、飲み屋ができ、浅草観音付近を思わせるほどの盛り場となった。両国橋東西の広小路には、髪結床や水茶屋といった床見世のほかに、棒手振りや屋台の露店商などが立ち並ぴ、軽業や手品、浄瑠璃、講談などの見世物小屋で賑わった。享保年間には両国広小路の露店売りが常設となり、安政ごろには小屋が建ち並んでいたと思われる。明治時代には卑俗な見世物小屋がたくさんあり、明治初年ごろには阪東村右衛門の芝居(のちの中嶋座)、富田角蔵兄弟の芝居(のちの明治座)、矢場辰の女芝居があり、いずれも粗末な小屋掛けであったが年中大入りであった。明治末には福宝堂の活動写真館「第七福宝館」ができ、両国広小路から薬研堀のあたりまで狭い横丁が縦横にあり、飲酒屋や汁粉屋などあらゆる飲食店が軒を連ねた。 その他の両国広小路に関連する風俗 うろうろ船 水垢離 両国花火 両国ねこういん坊主
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