背景、成立までの過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/19 00:21 UTC 版)
「フダイビーヤの和議」の記事における「背景、成立までの過程」の解説
624年のバドルの戦いでイスラム軍はマッカのクライシュ族に勝利を収め、625年のウフドの戦いではクライシュ族が勝利するが、ハンダクの戦いではクライシュ族はムハンマドに決定的な勝利を収める事ができなかった。ムハンマドに決定的な勝利を収められなかったクライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手をクライシュ族からムハンマドに変える勢力が多く現れた。 628年3月、夢に促されたムハンマドは信徒を連れてマッカへの小巡礼に発った。クライシュ族の襲撃を危ぶんだムハンマドは、アラブ人と遊牧民を巡礼に動員する。巡礼に参加したムスリムの人数1,400人、あるいは1,600人と伝えられている。クライシュ族からの攻撃を想定して武装を進言する者もいたが、ムハンマドはあくまでも巡礼が目的であるとして戦闘の準備は行わず、儀式に使う家畜を伴った。武装したクライシュ族の兵士が進路で待ち受けている報告を受けたムハンマドはフダイビーヤに移動し、交渉に備えた。 マッカのクライシュ族は、ムハンマドの巡礼を武力で妨害すれば神聖月の慣例を破ることになり聖地の守護者としての権威は大きく低下し、巡礼を認めるとムハンマドへの屈服の意思を表す状況に陥った。クライシュ族からフダイビーヤのムハンマドの元にマディーナ(メディナ)への撤退を求める使者が送られ、マッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。ムハンマドはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを使者として派遣するが、ヒラーシュの伝言を聞いたマッカ側は彼の乗ったラクダを斬殺し、ヒラーシュはフダイビーヤに戻った。ヒラーシュが帰還した後、クライシュ族はフダイビーヤの宿営地を襲撃するが失敗に終わった。 次にムハンマドはウマルをマッカへの使者に選んだが、ウマルは自分がマッカのクライシュ族と敵対していたことを理由に任務を辞退し、ウスマーンが使者として派遣された。ウスマーンから伝言を受けたマッカ側はウスマーンにタワーフ(カアバ神殿の周囲を回る儀礼)を認めたが、ウスマーンはマッカからの提案に妥協をしなかった。ウスマーンはクライシュ族の元に監禁され、ムハンマドの元にウスマーンが殺害された知らせが届けられた。ムハンマドに従っていたムスリム達は激怒し、ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従うよう、樹下の誓い(バイア)を行わせた。解放されたウスマーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。
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