胆沢城造営とは? わかりやすく解説

胆沢城造営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「胆沢城造営」の解説

延暦21年1月7日802年2月12日)に坂上田村麻呂霊験について奏上し陸奥国三神位階加えられ1月8日2月13日)には征夷軍監以下軍士以上の位勲も加えられる。そして1月9日2月14日)、胆沢城造営するために田村麻呂が造陸奥国胆沢城使として派遣された。1月11日2月16日)には駿河国甲斐国相模国武蔵国上総国下総国常陸国信濃国上野国下野国10ヵ国の浪人4000人を胆沢城周辺移住させることが勅によって命じられている。 延暦21年4月15日大墓公阿弖利為と磐具公母礼2人500余人率いて降った田村麻呂公卿に対してこの度大墓公阿弖利爲盤具公母禮の願を聞き入れて胆沢へと帰し2人の賊類を招いて取り込もう思います」と申し入れたが、公卿は執論して「野蛮の心をもち、約束して覆してしまう。朝廷威厳によってようやく捕えた梟帥を、田村麻呂らの主張通り陸奥国奥地放ち帰すというのは、いわゆる虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対したため公卿意見が受け容れられたことで阿弖流為母礼捉えて8月13日802年9月13日)に陸奥奥地の賊の首領であることを理由河内国2人を斬った。阿弖流為母礼弔い合戦反乱発生した形跡一切みられない

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胆沢城造営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「胆沢城造営」の解説

延暦21年1月7日802年2月12日)、坂上田村麻呂霊験があったことを奏上し陸奥国の3神に位階加えられた。 同年1月9日802年2月14日)、坂上田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城造営するために陸奥国へと派遣された。 同年1月11日802年2月16日)には、諸国10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城周辺移住させることが勅によって命じられている。かつては胆沢城造営について、大墓公阿弖利爲らを降伏追い込む契機となった出来事ではないか指摘されてきた。近年では和平交渉結果阿弖利爲らの正式降伏向けてシナリオ定まり、それにともなって戦闘全面的に終結したため、本格的な造営工事着手可能になったとの見方もされている。 同年1月20日802年2月25日)に坂上田村麻呂度者僧侶)を1人賜っている。理由不明であるが、『類聚国史』によると坂上田村麻呂含めた8人が度者1人一括して賜ったとある。戦乱による彼我戦没者冥福を祈るため、蝦夷教化のためなどの説が推定されている。

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