胆沢城造営
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延暦21年1月7日(802年2月12日)に坂上田村麻呂が霊験について奏上した陸奥国の三神に位階が加えられ、1月8日(2月13日)には征夷軍監以下軍士以上の位勲も加えられる。そして1月9日(2月14日)、胆沢城を造営するために田村麻呂が造陸奥国胆沢城使として派遣された。1月11日(2月16日)には駿河国・甲斐国・相模国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・信濃国・上野国・下野国10ヵ国の浪人4000人を胆沢城周辺に移住させることが勅によって命じられている。 延暦21年4月15日、大墓公阿弖利為と磐具公母礼の2人が500余人を率いて降った。田村麻呂は公卿らに対して「この度は大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の願を聞き入れて胆沢へと帰し、2人の賊類を招いて取り込もうと思います」と申し入れたが、公卿は執論して「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた梟帥を、田村麻呂らの主張通り陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、いわゆる虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対したため、公卿の意見が受け容れられたことで阿弖流為と母礼を捉えて8月13日(802年9月13日)に陸奥の奥地の賊の首領であることを理由に河内国で2人を斬った。阿弖流為と母礼の弔い合戦の反乱が発生した形跡は一切みられない。
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胆沢城造営
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延暦21年1月7日(802年2月12日)、坂上田村麻呂が霊験があったことを奏上した陸奥国の3神に位階が加えられた。 同年1月9日(802年2月14日)、坂上田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へと派遣された。 同年1月11日(802年2月16日)には、諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられている。かつては胆沢城の造営について、大墓公阿弖利爲らを降伏に追い込む契機となった出来事ではないかと指摘されてきた。近年では和平交渉の結果、阿弖利爲らの正式降伏に向けてシナリオが定まり、それにともなって戦闘が全面的に終結したため、本格的な造営工事の着手が可能になったとの見方もされている。 同年1月20日(802年2月25日)に坂上田村麻呂が度者(僧侶)を1人賜っている。理由は不明であるが、『類聚国史』によると坂上田村麻呂を含めた8人が度者1人を一括して賜ったとある。戦乱による彼我の戦没者の冥福を祈るため、蝦夷の教化のためなどの説が推定されている。
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