大墓公阿弖利爲の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)
「坂上田村麻呂」の記事における「大墓公阿弖利爲の降伏」の解説
延暦21年4月15日(802年5月19日)、胆沢城造営中に大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が種類500余人を率いて降伏してきたことが坂上田村麻呂から平安京へと報告された。阿弖利爲らの根拠地はすでに征服されており、北方の蝦夷の族長もすでに服属していたため、大墓公阿弖利爲らは進退きわまっていたものと考えられる。また、降伏のさいに古代中国の礼法である「面縛待命」がおこなわれた可能性を説く学者もいるが、史料にはそこまでは書かれておらず、和平交渉が重ねられた末の降伏と見ることも不当ではないため、厳しい礼法が実施されたとは考えがたい。 同年7月10日(802年8月11日)には坂上田村麻呂が付き添い、夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が平安京に向かった。『日本紀略』には「田村麿来」とのみあり、阿弖利爲と母禮が「入京」したとは記されていない。また「夷大墓公二人並びに従ふ」とあることから、この時点では捕虜の扱いではなかったとも説かれる。 上記に関連して同年25日(802年8月26日)には平安京で百官が上表を奉って、蝦夷の平定を祝賀している。 同年8月13日(802年9月13日)、陸奥の奥地の賊の首領であることを理由に夷大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等の2人が斬られた。『日本紀略』には公卿会議でのやり取りが記されており、2人を斬るときに坂上田村麻呂らが「この度は大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の願を聞き入れて胆沢へと帰し、2人の賊類を招いて取り込もうと思います」と申し入れた。しかし公卿は執論して「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた梟帥を、坂上田村麻呂らの主張通り陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、いわゆる虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対した。公卿の意見が受け容れられたことで、阿弖利爲と母禮が捉えられて河内国椙山で斬られた。史料がごくわずかで推測の域をでないが、朝威を重んじて軍事(蝦夷征討)の正当化にこだわった桓武天皇の意思によって阿弖利爲らを斬る決定がされたとの論がある。平安京で公卿会議に参加していることから、坂上田村麻呂は河内国椙山に居なかったものと考えられる。 延暦22年3月6日(803年4月1日)、坂上田村麻呂は造志波城使として彩帛50疋、綿300屯を賜って志波城造営のために陸奥国へと派遣された。
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