大壁建物(大壁造り建物)跡の検出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:43 UTC 版)
「上御殿遺跡」の記事における「大壁建物(大壁造り建物)跡の検出」の解説
幅 60㎝程度の溝を方形に巡らせた遺構を並んで 2基検出した。1つは南北長 11.6m、もう 1 つは 12.6m で、ともに 10m 程度と推測される。この遺構は現段階では、比較的細い柱を骨材とし、さらに、水平材や細い枝を絡めて網のように組み上げ(小舞)、それを両側から土で塗り固めて土壁とした建物と考えられる。構造・強度から土壁の厚さは十分に厚いものが考えられる。この場合、柱は塗り込められるので外からは柱の見えない大壁造りの建物となり、そのため、考古学上では同様の遺構をまとめて「大壁建物もしくは大壁造り建物」と呼ぶ。溝の中や柱の穴から出土した土器からこの建物の時期は古墳時代前期と考えられる。2棟並んで検出されたが、それぞれ方向が少しずれており、また、2棟が近接しすぎているため、同時期に建っていたものではなく、建て替えで位置をずらしたものと考えられる。それぞれの建物の新旧関係は現在のところ明らかではない。 大壁建物の検出例は比較的少なく、これまで滋賀県大津市の穴太(あのう)地区を中心に、近畿地方などでこれまで 100 例近くの遺構が見つかっている。これまでの検出例では奈良県南郷柳原遺跡の古墳時代中期のものが最も古く、他の多くは古墳時代後期にほぼ集中している。 大壁建物が検出される遺跡は渡来人の痕跡が見られるところが多く、また、朝鮮半島でも検出例があるため、大壁建物は渡来人によってもたらされた建築物のひとつと考えられている。 高島市内でこれまでに大壁建物が検出された例はなく、今回が初めての検出例となる。当遺跡周辺は継体天皇(6 世紀前半)とゆかりが深く、継体天皇の父、彦主人王(ひこうしのおう)の根拠地とされている。
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