胆沢の蝦夷の損害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 22:19 UTC 版)
巣伏の戦いでの胆沢の蝦夷軍の人的被害は不明である。『続日本紀』によると朝廷軍は「十四村、宅八百許烟」を焼き討ちしているが、宅八百許烟は竪穴住居800棟を指すものと考えられ、当時の胆沢地方の平均的な規模の竪穴住居は床面積20平方メートル前後であったと考えられているため、1棟に4~5人が住居したと仮定すると3200~4000人ほどが住み家を失った計算になる。 奥州市水沢にある杉の堂・熊之堂遺跡群は奈良時代後期のものとみられる竪穴住居で、発掘調査により一時に火災で焼亡していたことが推測されている。火災痕跡の年代観や、巣伏の戦いでの朝廷軍の進軍ルートとの一致から、朝廷軍による焼き討ちに遭った可能性が指摘されている。 胆沢の蝦夷にとって巣伏の戦いでは勝利を収めたともいえるが、14ヶ村800戸が焼き討ちされているため決して微々たる損害ではなかった。
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