胆沢城時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/12 13:15 UTC 版)
延暦21年(802年)、坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、多賀城から鎮守府が移された。この移転頃から機構整備も積極的に進められ、たとえば弘仁3年(812年)には、鎮守府の定員が将軍1名、軍監(ぐんげん)1名、軍曹2名、医師・弩師(どし)各1名と定められた。 承和元年(834年)には、元は陸奥国印を使っていたのが新たに鎮守府印を賜っている。このように、移転後の鎮守府は、多賀城にある陸奥国府と併存した形でいわば第2国府のような役割を担い、胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めていた。 このように、鎮守府の本来の性格は、正にこの平常時での統治であり、非常時の征討ではない。したがって、平安時代中期以後になると、鎮守府本来の役割は失われ、鎮守府将軍の位のみが武門の誉れとして授けられた。
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