聞役と長崎奉行
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長崎聞役は、長崎奉行にとって、人員の少ない奉行所の業務を補完するものであった。長崎奉行は、西国諸藩に触書を伝達する際、本来は各地へ使者を派遣する必要があったが、長崎に諸藩聞役が常駐するようになってから、触書や諸藩への指示は長崎警備の当番藩(福岡藩と佐賀藩で交代)の聞役に告げ、各藩の聞役へ伝達するようにと命じるようになった。 オランダ船が入港した時、奉行所からはまず福岡藩と佐賀藩の聞役に御達がある。次に島原藩・平戸藩・唐津藩・大村藩の聞役に御達があり、残る8藩の聞役への伝達はその後であった。福岡藩と佐賀藩は交代で長崎警備を担当していることから、真っ先に伝達された。島原藩は島原の乱後の寛永16年(1639年)以来、異国船来航の時には長崎に出張し、長崎奉行と相談して警備に当たることになっていた。寛文9年(1669年)に島原藩主が高力家から松平家に代わった際、唐津藩主が長崎警備に加わることになった。大村藩は領地が接していることもあり、長崎とは密接な関係を保っていた。平戸藩も長崎警備担当を自認し、藩主はオランダ船の入湊・出帆時に長崎に赴くことになっていた。このような家格が、4藩が福岡・佐賀の次に御達を受ける理由となっていた。 また、聞役は国元からの連絡を報告し伺・嘆願などを儀礼に従って奉行に提出するという役目と、藩主や国元からの使者が奉行と会う必要がある時は、その約束を取り付け奉行所へ出頭する時の案内をする役目もあった。 長崎奉行から特別な指示が出されることや、長崎に来航した異国船のことなど諸藩聞役が知りたがる点については奉行所からの公式見解が示され、必要に応じて国元への報告なども令達されることもあった。 日常的には、毎月始めに「月次(つきなみ)御礼」がある。これは、奉行への挨拶のため、奉行所に出頭することである。毎月中旬には、「月次御見廻(おみまい)」として進物を贈っていた。進物を渡す際には、国元からの書状を持参することもあった。 長崎奉行は江戸詰めのもう1人の奉行と1年交替で長崎の在勤を勤めるが、新任奉行が長崎に到着する際には聞役達は新大工町付近まで出向く。そして奉行を乗せた駕籠が桜馬場まで来たところで、諸藩の聞役達の名が披露され、奉行は駕籠を止めて彼ら1人1人に対して会釈をする。
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