習志野高等学校
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 14:00 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動習志野高等学校(ならしのこうとうがっこう)は、千葉県にある高等学校。
- 習志野市立習志野高等学校 - 千葉県習志野市東習志野に所在
- 日本大学習志野高等学校 - 千葉県船橋市習志野台に所在
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習志野高校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 01:31 UTC 版)
1986年、教員の異動により習志野市立習志野高校のサッカー部監督に就任。全国制覇の経験を持つ習志野高校から声がかかったことに、本田自身も前向きだった。 習志野高校では、テクニックをベースとしたサッカーを突き詰めていくことを決意。決意の背景には、静岡学園高校を率いる井田勝通監督のサッカーへの憧れや、千葉の強豪校が基本的に前へ蹴り出すサッカーで勝っていたことへの反発、テクニックのある選手を日本サッカーリーグに送り出して活躍させたい、などの思いがあった。その結果、市原緑高校時代とは180度変わり、スパルタ指導や体罰は辞め、テクニック中心の練習をするようになった。 また、1980年代後半から1990年代にかけて出現してきた町クラブからの選手獲得を模索し、クラブ育ちの個性的な選手を大きく伸ばす考え方をとった。さらに、アルゼンチンやウルグアイへ海外遠征の海外遠征も実施した。 本田監督のもと、習志野高校は1989年から第68回、第69回の全国高校選手権に連続出場した。また、1992年の第71回全国高校選手権にも出場し、ベスト4に進出した。福田健二、広山望らのいた1995年には、この年の高校総体で優勝している。しかし1993年以降、千葉県からの出場枠が1つしかない全国高校選手権では千葉県予選で船橋市立船橋高等学校などに敗退する年が続き、しばらく出場できなかった。玉田圭司がいた1998年、第77回全国高校選手権に6年ぶりに出場した。 習志野高校の選手は、多くの選手がテクニックを持ち、ボールをしっかり止めて蹴ることができた。反面、「うまければそれでいい」ということで技術面を伸ばすことばかりに偏りすぎてしまったことと、メンタルやフィジカルなどさまざまな面を鍛えていかなければいけなかったことを本田は反省している。
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