美術家に対する処遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
ナチスは1933年の政権獲得後、プロイセン芸術院(芸術アカデミー)の文学部門から反ナチ的なトーマス・マンら小説家・詩人多数を追い出し、会員を一新させた。また1933年5月10日には、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスと大学生らによって「非ドイツ的著作物の焚刑」の名でドイツ各地で焚書が行われた。しかし美術部門では、芸術院からの前衛作家追放はなかなか進まなかった。1点物である絵画・彫刻はコピーが大量に発行される書籍より影響が少なく、反ナチ的かどうかの判別もしづらいためであった。まず画壇の巨匠マックス・リーバーマンをはじめユダヤ人芸術家らがその人種のゆえに追放され、ディックスやケーテ・コルヴィッツ、ブルーノ・タウトらも早期に退会させたものの、「退廃的な」美術家や建築家がプロイセン芸術院から追放されたのは1937年7月のことになる。 これに対し1933年、ナチス政権により帝国文化院(Reichskulturkammer)が創設され、その下に置かれた全国造形美術院(Reichskammer der bildenden Künste)によって「退廃芸術家」も含め主だった芸術家が組織され、統制の対象となった。この造形美術院で1936年12月に総裁になったのはヒトラーに高く評価されていた画家、アドルフ・ツィーグラー(ドイツ語版)(1892年-1959年)であった。1920年代前半にヒトラーと会い、1920年代末にはナチスの造形美術部門責任者となっていた彼は、古典的で精緻な人物像を得意としていたが、女性の裸体の肉体や骨格などの再現ぶりに比べてその表情や姿勢の描写は硬く躍動感には欠けており、ドイツのどの美術館でも優れた作家とはみなされていなかった。しかし彼はナチスの後押しで1933年以降美術界の指導者にのし上がり、「ドイツ精神を代表する作家」と称えられ、その作品は高額で売られた。彼は自分を取り立ててくれたナチスのため、退廃芸術家への罵倒や美術館からの退廃芸術品狩りを行うことになる。ほかにも、農民や農村風景などを描く風俗画家など、19世紀以降の近代美術の進展で社会の片隅に追いやられた画家たちが突如高い地位に引き上げられ、彼らは積極的に退廃美術攻撃に力を入れた。
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