総統付医師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:27 UTC 版)
1934年3月1日に親衛隊に移籍が命じられるとともに、総統付医師に任命され、ヒトラーのそば近くに仕えるようになった。3月17日にアンニ・レーボルン(英語版)と結婚。ヒトラーとヘルマン・ゲーリングが結婚式の立会人となり、披露宴はベルリンのゲーリング邸で行われた。7月29日に正式に親衛隊に入隊(隊員番号260,353)し、親衛隊上級地区「東」所属となる。1936年から1940年にかけて親衛隊本部に勤務する。 1939年10月頃、フィリップ・ボウラーとともにT4作戦の監督に任ぜられた。1940年5月5日にヒトラーより教授の称号を与えられ、5月9日にフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の員外教授となる。5月15日より武装親衛隊のLSSAHに所属する。1942年6月1日より国家研究顧問会(ドイツ語版)の一員となり、7月28日にブラントはヒトラーから衛生及び保健全権委任者に任命され、衛生及び医療制度の軍事部門と民事部門の間での医師、病院、薬剤の需要の調整を行う特別任務を与えられた。8月1日より親衛隊作戦本部に所属する。 1943年9月5日、公衆衛生及び保健全権委員に任命され医学研究においての特別権限を与えられ、強制収容所での人体実験を発案する。また1943年からは戦傷者・空襲負傷者の治療の余裕を作るため、「治療しても仕方がない精神病患者」を安楽死させる計画が実行された。この計画はブラントの名をとってブラント作戦(ドイツ語版)と名付けられている。1943年9月5日からは全医療器具製造·物流部長、1944年3月1日には毒ガス防護及び呼吸マスク特別委員会の委員長職を歴任する。 1944年8月25日には公衆衛生及び保健国家委員となり全ドイツの医師の頂点となる。
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