総統地下壕とソ連での抑留
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 08:41 UTC 版)
「ヨハン・バウア」の記事における「総統地下壕とソ連での抑留」の解説
1944年1月31日にバウアは親衛隊少将(Brigadeführer)/警察少将に、1945年2月24日には親衛隊中将(Gruppenführer)に昇進した。 戦争の最後の数日間、バウアはヒトラーと共に総統地下壕に残り最後までそこに留まった。ベルリンの戦いからヒトラーを脱出させる許可が下りれば、バウアはフィーゼラー Fi 156 シュトルヒをブランデンブルク門近くのティアガルテンの促成滑走路から離陸させる計画を考えていた。 ヒトラーが総統地下壕を離れることを拒否したため滑走路はゲーリング解任後にドイツ空軍最高司令官に任命されたローベルト・フォン・グライムを運んできたハンナ・ライチュにより使用され、その2日後に同じ滑走路を使用してライチュはフォン・グライムをベルリンから連れ出した。ヒトラーは同じ方法でバウアとマルティン・ボルマンに脱出するように勧めた。 ヒトラーの自殺後にバウアは速成滑走路が穴ぼこだらけで使用不可能な状態であり、赤軍の第3突撃軍により占拠されていることに気付いた。バウアはボルマンを含む他の数名と共に米/英戦線への脱出を試みたが、途中でボルマンとはぐれた後でバウアは脚を撃たれて重傷を負い後で脚を切断することになった。 病院で捕虜となったバウアはベルリン陥落の前にヒトラーを連れ出したと信じられていたためにソ連側の多大な関心を呼んだ。バウアは1955年に釈放されるまで10年の間ソ連に囚われていた。
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