経緯および背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 07:21 UTC 版)
ドロシー・フィールズは友人のエセル・マーマンのためにアニー・オークレイについてのミュージカルを思いついた。プロデューサーのマイク・トッドに却下されたため、フィールズは新しいプロデューサー・チームのリチャード・ロジャース 、オスカー・ハマースタイン2世に依頼した。ロジャース&ハマースタインはミュージカル・コラボレート第1作「オクラホマ!」がヒットし、自身の舞台事業および他の作家のプロデュースをしていく決心をしていた。オークレイに関するミュージカルのプロデュースに同意し、ジェローム・カーンが作曲、フィールズが作詞、フィールズと兄のハーバートが脚本を執筆することとなった。カーンはハリウッドでミュージカル映画の作曲をしており、1945年11月2日、「アニーよ銃をとれ」の作曲を始めるためニューヨークに戻ったが、3日後、脳出血で道路で倒れてしまった。入院したが、1945年11月11日に亡くなった。その後、ロジャース&ハマースタインとフィールズはアーヴィング・バーリンに作曲を依頼した。フィールズはバーリンが作詞と作曲の両方をこなすことを好むことを知っていたため、作詞を辞退した。当初、バーリンは場面によって合う曲を作れるか不安で作曲を断った。ハマースタインは本読みをしてそれを基にいくつか作曲してみるようバーリンを説得し、数日後バーリンは「"Doin' What Comes Naturally"」、「"You Can't Get a Man With a Gun"」、「ショウほど素敵な商売はない」を披露した。バーリンの曲は物語だけでなくマーマンの資質にも合い、残りの曲も作曲することとなった。のちのヒット曲となる「ショウほど素敵な商売はない」はロジャースの好みではなかったとバーリンが誤解したためあやうく却下するところであった。「オクラホマ!」の構成を模倣し、ワイルド・ウエスト・ショーの他のメンバーの恋愛も織り込むこととなった。 当初アニー役はメアリー・マーティンに依頼したが断られたという説がある。開幕日、マーティンは夫リチャード・ハリデーと観劇した。観劇後に帰宅したハリデーはマーティンに「後悔しただろう」という趣旨のことを語った。ブロードウェイ初演でアニー役を演じていたエセル・マーマンが全米ツアー公演への出演を渋ったため、マーティンが出演を希望して約2年間アニー役を演じ、大声で歌っていたため声が低くなった。 1999年の再演において、ピーター・ストーンが「"Colonel Buffalo Bill"」や「"I'm An Indian Too"」などインディアンに関する曲が配慮に欠けるとして削除するなど脚本を改正した。ストーンは製作者たちの子孫に許可を取り変更した。構成も変更し、「ショウほど素敵な商売はない」で始まり、劇中劇の形式を採用した。
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