粟鹿大明神元記とは? わかりやすく解説

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粟鹿大明神元記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/04 18:09 UTC 版)

『粟鹿大明神元記』(あわがだいみょうじんもとつふみ)は、但馬国朝来郡(現・兵庫県)の粟鹿神社の社家に伝わる古文書

概要

和銅元年(708年)に、粟鹿神社祭主の新羅将軍正六位上神部直根マロ(マロの字は門がまえに牛、三輪根麻呂[1])が編纂した書物で、粟鹿神社の祭神・天美佐利命についてや、神社の縁起が記されている[1]。また、伊佐那伎命伊佐那美命から始まる神部氏(みわべし)の竪系図が残されている。成立年が正しければ、記紀に先行する書物となるものの、これに否定的な意見も存在する[1][2]

元々は九条家の蔵に保管されていたのを、昭和30年(1955年)に是澤恭三が発見し、現在は宮内庁の書陵部に保管されている[1]

研究

是澤恭三は、九条家の文庫中に九条家本『元記』を発見し、また別種の谷森本『元記』が宮内庁書陵部に架蔵されていることを知って、昭和30年(1955年)に「粟鹿神社祭神の新発見」、昭和31・2年(1956年1957年)に「粟鹿大明神元記の研究」、昭和33年(1958年)に「但馬国朝来郡粟鹿大明神元記に就いて」という3つの論文を発表した。是澤恭三の九条家本『元記』に関する論及は多岐にわたるが、

  • 鎌倉ないし室町初期の写しであること
  • 中世以来混乱していた粟鹿神社の本当の祭神は天美佐利命であったこと
  • 『元記』撰録の和銅元年8月13日という日付は『日本書紀』持統5年に大三輪氏以下18氏に纂記を上進せしめたことと無関係ではなく、『元記』は大三輪氏が上進した纂記と密接な関係を有すること
  • 『元記』の編纂者・神部直根マロは『日本書紀』天智2年3月条に「中将軍(中略)三輪君根麻呂(中略)率二万七千人討新羅」とみえる三輪根麻呂と同一人物であること
  • 竪系図を使用しているのは、平安初期の和気系図(円珍系図)と丹後国与謝郡籠神社海部祝系図のみであるが、九条家本『元記』はそれよりも古い和銅の竪系図として非常に貴重な史料であること
  • 『元記』と『日本書紀』とが対応する箇所をいくつか検討して、両者が酷似ないし近似するからといえども、一概に『紀』の文章を剰窃したとはいえないこと
  • 確かに『元記』の中には漢風諡号や国名など和銅元年の年紀と矛盾する点もあるけれども、その原本は相当に古いものとみてさしつかえなく、この史料は神話や古代史の研究にとっては勿論、神道史や国語学の研究にとってもすこぶる貴重な古記録であること

を論文にて強調している[3][4][5][6]

田中卓は、「古代氏族の系譜-ミワ氏族の移住と隆替-」という論考を発表し、『元記』の主要部分をなす系譜部分は記紀や『先代旧事本紀』などの古文献と異同を含む独自な所伝が少なくなく、系譜の書法における『上宮記』逸文との類似、神功皇后の「天皇」の称、「弥」の特殊仮名遣いなどから、頗る貴重な古文献と認めうると判定した。更に、

  • 神部直根マロは『日本書紀』天智2年3月条の三輪君根麻呂と同一人物である
  • 和銅元年8月13日という年紀と『元記』という言葉について、持統5年8月13日条の墓記(纂記)が基記(モトツフミ)の誤写と解釈すると、持統5年8月13日の大三輪氏基記〜大宝2年の国造記〜和銅元年8月13日の『元記』という一連の筋道が辿れ、『元記』原本(系譜部分の原形)の成立した和銅元年という年紀を疑うに十分な根拠に乏しく、『元記』原本はまさに希代の古記である

と主張した[7]

瀬間正之は当文献を上代語資料と扱うべきかどうかを文字表記の観点から検討し、上代特殊仮名遣を用いている箇所の正確性について考察した。その結果、「以上榛氏之神宅之印」以前の記述(櫛甕戸忍勝速まで)の表現方法が「娶…」でありそれ以降は「母曰…」となっていること、神名において「移・希・比弥[注 1]」などを始めとする仮名の用例が『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『正倉院文書』『上宮記』逸文、天寿国曼陀羅繍帳銘や元興寺露盤・丈六光背銘といった他の上代語資料にも見られるものであることなどから、「以上榛氏之神宅之印」までの系図の神名は記紀と同じく上代語資料としての価値があり、当文献を作成するにあたって参照された元となる上代語資料が引き継がれているとした。一方、「以上榛氏之神宅之印」以後の記述は上代語資料とは認めがたい表現であること、天皇の漢風諡号や国号に問題点が生じることなどから、和銅元年成立と見るのには疑問を呈し、出雲にまつわる神の系譜が中心となる「以上榛氏之神宅之印」より前の部分のみ希少性を評価した。また、表題名について当文献中に「粟鹿大神」の使用例があり、記紀に「大明神」の例が存在せず谷森本でも「大神」を採用している点から、『粟鹿大神元記』が本来の名称であると論じた[2]

粟鹿大明神元記に記された系図

伊佐那伎命
 
 
 
素佐乃乎命
 
 
 
蘇我能由夜麻奴斯祢那佐牟留比古夜斯麻斯奴
 
 
 
布波能母知汗那須奴
 
 
 
深淵之水夜礼花
 
 
 
意祢都奴
 
 
 
天布由伎奴
 
 
 
大国主
 
 
 
久斯比賀多命
 
 
 
阿麻能比賀大命
 
 
 
櫛甕戸忍栖浦浦稚日
 
 
 
櫛甕戸忍勝速
 
 
 
多祁伊比賀都
 
 
 
耶美賀乃許理
 
 
 
宇麻志毛呂尼命
 
 
 
刀余美気主命
 
 
 
意保美気主命
 
 
 
大田田根子
 
 
 
大多彦命
 
 
 
大彦速命
 
 
 
武押雲命
 
 
 
猛日
 
 
 
神部速日
 
 
 
神部忍
 
 
 
神部伎閇
 
 
 
神部奈久
 
 
 
神部宿奈
 
 
 
神部二身
 
 
 
神部小椅
 
 
 
神部都牟自
 
 
 
神部万侶
 
 
 
神部根マロ

脚注

注釈

  1. ^ 九条家本原文では「弥」の弓偏方偏とする。

出典

  1. ^ a b c d 前之園 1977, pp. 115–147.
  2. ^ a b 瀬間 1989, pp. 1–34.
  3. ^ 是澤 1955, pp. 133–196.
  4. ^ 是澤 1956, pp. 31–73.
  5. ^ 是澤 1957, pp. 1–17.
  6. ^ 是澤 1958, pp. 40–64.
  7. ^ 田中 1956, pp. 91–113.

参考文献

関連項目

外部リンク


粟鹿大明神元記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:55 UTC 版)

鴨王 (上古)」の記事における「粟鹿大明神元記」の解説

『粟鹿大明神元記』では、久斯比賀多命と阿麻能比賀太命と分けられ記されている。久斯比賀多命宇治夜須姫命を娶り阿麻能比賀太命と淳中底仲姫命をもうけ、墓は「泉国知努乎曽」にあるという。そして、「大和氏文」から引用する形で、「太祁知遅若命」という別名も記している。 阿麻能比賀太命は意富多弊良姫を娶り甑戸忍速浦浦稚日命をもうけたという。そして、「大和氏文」から引用する形で、「太祁弥賀乃保命」と言う別名も記している。

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