篠原一孝-正室・円智院、継室・松齢院
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円智院は、前田利家の養女(利家実弟・佐脇良之の娘)。円智院殿妙浄大姉。妙法寺(金沢市)の開基となる。現在、石川県指定文化財で安土桃山時代に描かれた「紙本著色圓智院妙浄画像(篠原一孝夫人画像)」(縦、61.0㎝、横、35.8㎝。妙法寺所蔵、石川県立美術館保管)が残されている。一孝の間に女子を設け、美濃国・大垣城主・伊藤盛正(図書)の正室となる。慶長3年(1598年)8月30日、死去。墓所、位牌とも妙法寺にある。 松齢院は、前田家草創期の最高実力者、青山吉次(佐渡守、17000石)の娘。母は前田利家の妹(寺西九兵衛の正室)の子で前田利長の養女・長寿院である。円智院他界後、前田利家の遺言(状)によって、一孝の後妻となる。最初は今石動城主・前田利秀(利家の末弟・前田秀継の子)に嫁ぎ、利秀が病死(早世)したため、篠原一孝と再婚した。一孝の確認し得る5人の男子は、松齢院との間にできたと言われている。しかし、配流となって慶長20年(1615年)に早世した嫡男・主膳一由(室は保智姫)を松齢院の子とすると享年、16歳以下で、保智姫より5歳ほど年下(それ自体は珍しいことではないが)となり、岩松の誕生、本阿弥光悦との交流や家臣間の暗闘の中、一方(譜代勢力)の頭目に担がれそうになるなど年齢的に不自然である。主膳一由(貞秀)は、円智院との間にできた男子と考えられる。前田宗家からの輿入れとなる保智姫(前田利家の九女)の夫(嫡男・主膳一由)が配流・早世では藩として都合が悪いのか、「諸氏系譜」では保智姫を二男・篠原一次の室とし、岩松(嫡男・一由と保智姫の間に誕生した男子)を一次の実子・虎之助として操作を行っている。円智院も利家の養女として前田宗家からの輿入れなのである。同様の理由から、篠原一由(主膳、貞秀)を松齢院の子として、藩が操作をしたものと考えられる。松齢院は、前田利常とも交流があり、混乱と危機にあった篠原別家を支えた。長生であり、承応3年(1654年)12月25日、死去。松齢院殿梅胤栄葩大姉。野田山墓地(篠原別家墓所)に葬られる。
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