築庭の経緯とは? わかりやすく解説

築庭の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 07:44 UTC 版)

後楽園」の記事における「築庭の経緯」の解説

現在、後楽園から旭川隔てて南にある岡山城1597年慶長2年)、豊臣家五大老一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家旭川流域にあった岡山」という小高い山を利用して築城したものである。この時、旭川を城および城下町防御固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川流路岡山城の手前で大きく東方曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えたのである。これにより、城と城下町防御強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後岡山城下はたびたび洪水悩まされることになる。 藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり4代目池田綱政治世となる。 池田綱政は父・光政見出されていた津田永忠登用し度重なる洪水被害疲弊していた岡山藩財政再建のために新田開発もとより放水路百間川開削などの抜本的な洪水対策行い、藩の財政再建させた。1686年貞享3年)ごろに百間川完成し、藩の財政にも余裕生じてきたため、綱政は永忠命じて城北側の旭川沿い低湿地および宇喜多秀家によって集められ小姓たちが居住していた「小姓町」に自らの休息のための庭園造るよう命じた岡山藩士・斎藤一興の『池田家履歴略記』には「曹源公(=綱政)御遊休の園をひらかれんため簸川ひのかわ、=京橋川)の東、御野郡上道郡の内にて、御野郡浜村の内上道郡国富村の内、城北にあたって其の地を卜せられ、津田重次郎(=永忠諸事奉行し……」とある。 池田家史料によると、1687年貞享4年12月着工し鍬始め)、翌1688年元禄元年)には本格的な土木工事とりかかり次々と園内の建造物植栽完成していった。藩主・綱政は岡山城中足しげく庭園通い工事開始4年後の1691年元禄4年)には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠工事携わっている家臣労をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられる途中洪水被害受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後庭園拡張新たな施設建築が行われ、1700年元禄13年)に一応の完成をみる。 なお、庭園工事始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていたが、1695年元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになった

※この「築庭の経緯」の解説は、「後楽園」の解説の一部です。
「築庭の経緯」を含む「後楽園」の記事については、「後楽園」の概要を参照ください。

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