範頼の山陽道・九州遠征
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「屋島の戦い」の記事における「範頼の山陽道・九州遠征」の解説
梶原景時、土肥実平らが山陽道に乗り出したが、6月に入ると屋島に残る平家の勢力が再び山陽道に及び始め、その地の鎌倉御家人たちが平家に度々襲撃されるようになる(『玉葉』)。そのため西国への大規模な出兵が必要となった。その山陽道遠征軍の指揮をとるのは当初義経が予定されていたが、7月に入ると今度は畿内で三日平氏の乱が勃発し、その畿内の反乱を鎮圧するのに義経は専念せざるを得なくなる。そのため頼朝は山陽道への出兵の総指揮者を範頼に変更した。同年8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎が鎌倉を出立した。 三日平氏の乱は鎌倉方御家人佐々木秀義が戦死するなどの激しいものであり、乱そのものが鎮圧された後も、首謀者の一人である藤原忠清などの行方がわからず都は軍事上の不安を抱えている状態だった。そのころ都の治安維持に義経が必要不可欠であると判断した後白河法皇は8月に義経を検非違使尉に任じた。 8月27日に範頼は入京して追討使に任じられ、9月1日に3万余騎をもって、京を発し九州へ向かった。 山陽道を進む範頼軍は10月には安芸国に達し、いったんは長門国まで進出するが、兵糧が尽きて周防国へ後退している。12月には備中国藤戸の戦いで平行盛の軍を撃破しているが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ兵糧の調達に窮し、関門海峡を知盛に押さえられており、船もないため九州にも渡れず進撃が止まってしまった。範頼は窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っている。侍所別当の和田義盛ですら鎌倉へ密に帰ろうとする事態になり、範頼軍の将兵の間では厭戦気分が広まり全軍崩壊の危機に陥った。思わしくない戦況に鎌倉の頼朝は焦燥した。 一方、京に留まっていた義経は後白河法皇に引き立てられ、9月には従五位下に昇り、10月には昇殿を許されている。義経は後白河法皇との結びつきを強めた。 元暦2年(1185年)1月に範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達して、ようやく豊後国へ渡ることに成功。2月1日、範頼は筑前国芦屋浦で平氏方の原田種直を破る。範頼は背後から彦島の知盛を衝くことを企図するが兵船が不足して実行できなかった。 この苦境を知った義経は後白河法皇に西国出陣を奏上し、許可を得た。
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