第2期:マーシャル家(1189年 - 1245年)
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「ペンブルック伯」の記事における「第2期:マーシャル家(1189年 - 1245年)」の解説
ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯) (1146年 - 1219年) ウィリアム・マーシャル (第2代ペンブルック伯) (1190年 - 1231年) リチャード・マーシャル (第3代ペンブルック伯) (1191年頃 - 1234年) ギルバート・マーシャル (第4代ペンブルック伯) (1194年 - 1241年) ウォルター・マーシャル (第5代ペンブルック伯) (1196年頃 - 1245年) アンセルム・マーシャル (第6代ペンブルック伯) (1198年頃 - 1245年) 1189年8月、43歳であったウィリアム・マーシャルは、キリスト教国家の内で最も偉大な騎士であるとされていたが、リチャード1世によってストリギルおよびペンブルックの女相続人イザベル・ド・クレアと結婚させてもらったことで初代ペンブルック伯爵となることができた。彼は以前、リチャード1世の父親であるヘンリー2世に仕えており、リチャード1世が反乱を起こした際には敵対関係にあったが、リチャード1世は父が彼とイザベルとの結婚を許可していたことを破談にするようなことはしなかった。 ウィリアムはリチャード1世と弟のジョン王に対し忠実に仕え、第一次バロン戦争で造反したイングランド諸侯とフランスから王家を守るために戦い、1215年のマグナ・カルタに署名もしている。翌1216年にジョンが死去すると、70歳になったウィリアムは王国の摂政に就き幼いヘンリー3世の保護者となり、造反諸侯とフランス軍を打ち破り、平和を得るため再びマグナ・カルタに署名している。1219年の初めに病にかかり、5月14日にレディングの近くにあるカバシャム(en)の邸宅で死去すると、摂政の職務はヒューバート・ド・バーが、伯位は5人の息子達が継承した。 ウィリアムの長男で父と同名のウィリアムは第2代ペンブルック伯になり、フランスでヘンリー3世に仕えたほか、司法長官(en)を務めていた1224年から1226年の間、ウェールズとアイルランドでの戦争に関わった。彼の2度目の妻はヘンリー3世の妹エリナーであったが、子供を得ることなく死去した。なお、エリナーは後にシモン・ド・モンフォールと再婚している。 第3代伯爵でウィリアムの弟リチャードはヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードと友人であり、同盟も結んでいた。次いで3人の弟ギルバート、ウォルター、アンセルムが伯爵になったが、1245年にアンセルムが死去するとマーシャル家の男系子孫は断絶した。莫大な財産はアンセルムの5人の姉妹とその子孫に配分され、ペンブルック伯爵領は王家に返却された。
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