イザベルとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 09:01 UTC 版)
「オンフロワ4世・ド・トロン」の記事における「イザベルとの結婚」の解説
1183年秋、オンフロワ4世とイザベルはケラク城(英語版)で結婚式を挙げた。ところがその式の真っ最中に、サラーフッディーンが襲撃してきて城を包囲した(ケラク包囲戦(英語版))。これはルノー・ド・シャティヨンが2月に紅海沿岸で略奪遠征をおこなったことへの報復だった。エルノール(英語版)の年代記によれば、サラーフッディーンはオンフロワ4世の母エティエネットに説得され、新郎新婦が身を隠している塔へは攻撃しなかったが、城のそれ以外の部分へは攻撃を続行した。しかし12月4日、ボードゥアン4世とトリポリ伯レーモン3世の援軍が到着し、ケラク城は解放された。 1183年3月、病状が悪化し死が近づいていることを悟ったボードゥアン4世は、異母姉シビーユとその夫ギー・ド・リュジニャンから相続権を剥奪し、シビーユの前夫との子である6歳のボードゥアン5世(英語版)を後継者とし、レーモン3世を摂政に指名した。また高等法院(英語版)は、万が一ボードゥアン5世が死去した場合、教皇、神聖ローマ皇帝、フランス王、イングランド王が、シビーユとイザベルのいずれがエルサレム王位を継承するか決定できる、と宣言した。ボードゥアン4世は1185年3月に死去した。ボードゥアン5世が跡を継いだが、彼も翌夏に亡くなった。
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