第1次日本ハム時代
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プロ1年目の2003年には二軍で打率3割、14盗塁を記録し、一軍でもプロ初打席初安打となる三塁打を大阪近鉄バファローズの岩隈久志から記録した。 それ以降2年間はケガなどで伸び悩み一軍出場はなかったが、2006年に開幕一軍入り。すぐに二軍落ちしたが、同じ外野手の稲葉篤紀と坪井智哉が8月5日・6日に相次いで故障したことから再昇格のチャンスを得る。主に代走としての起用だったが、この年初先発出場の8月13日の千葉ロッテマリーンズ戦(札幌ドーム)で先発の渡辺俊介からプロ初打点を挙げた。以後も渡辺との対戦時に高打率を誇り、小田智之と共に「俊介キラー」と呼ばれるようになった(この年21試合出場、うち4試合のスタメンのうち3試合が対渡辺戦。渡辺との通算対戦成績は23打数10安打、打率.435と相性が良く、また一軍での通算本塁打2本のうち1本は渡辺から打ったものである)。同年秋のアジアシリーズでは、出場を辞退した現役を引退する予定のSHINJOに代わり、3試合に左翼手として先発出場した(その年に主に左翼手を務めていた森本稀哲が、SHINJOが務めた中堅手に回る)。 2007年は飯山裕志と共に代走及び守備固めとして試合終盤を任され、94試合に出場(うち先発出場は6試合)。リリーフ捕手の中嶋聡を含めたスーパーサブトリオとしてトレイ・ヒルマン野球の一端を担った。4度の代打機会で3安打を打つ勝負強さも見せた。 2008年は森本の離脱時に先発出場が増えたが、シーズン終盤に足を痛めたことで打撃面では低迷した。しかし代走としては前年に続きここぞという場面で起用され、チームを何度も救った。 2010年11月9日、ウィルフィン・オビスポとのトレードで、須永英輝とともに読売ジャイアンツへ移籍した。背番号は44。
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