第二次計画:1804年10月-1805年初頭
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「トラファルガー戦役」の記事における「第二次計画:1804年10月-1805年初頭」の解説
トレヴィルの死後に変更が加えられた侵攻計画は、前のものよりもかなり野心的で、柱を成す3つの独立した作戦から成っていた。この計画は、トレヴィルの後継者で、トゥーロン駐留のピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル・ド・ヴィルヌーヴが 、10月21日に、5600人の部隊を乗せた10隻の戦列艦を地中海へと出航させ、ネルソンの艦隊をかわした後、カディスからエーグル(英語版)を合流させ、ジブラルタル海峡を横切り、その後、1800人の兵を2隻の艦に乗せて分遣するとされていた。それからヴィルヌーヴは、残りの部隊を連れて西インド諸島へ向かい、一方2隻の分遣隊は、3つの作戦のうちの1つを遂行する任務に就く。2隻はセントヘレナへ向かってこの島をイギリス軍から奪い、その後に北へ戻ってセネガルへ上陸し、西アフリカでの紛争を扇動する。その間、エドゥアール・ジャック・ブルグ・ド・ミシェシ(英語版)少将が、11月1日に、6隻の艦隊に3500人の部隊を乗せてロシュフォールから西インド諸島へ向けて出航する。イギリス側の封鎖をかいくぐったこの艦隊は、西インド諸島でマルティニークとグアドループのフランス軍を増員し、イギリス領のドミニカとセントルシアを攻略する。ここまでの目標を達成したところで、ヴィルヌーヴとミシェシが合流して、15隻の戦列艦と5000人の部隊となり、この戦力でフランスはスリナムを奪い、他のオランダ領とイギリス領の植民地を攻略してから、大西洋を横断して戻ってくる。 ヴィルヌーヴとミシェシが西インド諸島で任務についている間、ガントーム率いる21隻の戦列艦が、18000人の部隊を乗せて11月23日にブレストを発ち、英仏海峡を横切って北海に入り、スコットランドの沿岸を航行する。フランス軍はアイルランド北岸のスウィーリー湾(英語版)に到着し、部隊を上陸させる。全軍挙げてのアイルランドへの侵攻が進んでいる間、ガントームはアイルランド西海岸の周囲を航行し、西インド諸島から戻ってくるヴィルヌーヴとミシェシと合流するためにウェスタンアプローチに入る。40隻近くの連合艦隊により、フランスは英仏海峡からブローニュを一掃しながら航海し、この計画の3つ目にして最後の目標であるイギリス侵入を成し遂げる。しかしこの計画も、天候に恵まれ、イギリスが介入しないことが条件で、しかも何千マイルも離れた艦隊同士での意思伝達は、突如変更されることもあり、実行はかなり不可能であった。イギリス軍がガントームへの命令を捕捉したため、計画は中止され、実行に移されなかった。
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