第二期総督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:48 UTC 版)
「マヌエル・アルミホ」の記事における「第二期総督時代」の解説
1841年に、アルミホはテキサス人によるサンタフェ出征の軍隊を撃退することに成功した。 彼は、帰国の安全を保証するという、明らかに嘘の約束を承認したのだが、結果としてテキサスの商人と兵士らを捕虜として捕え、囚人としてはるか南のメキシコまで移送した。 アルミホの腐敗についての様々な話は、米国によるメキシコへの侵入を正当化するために、白人社会内部を納得させる言い訳でもあった。彼がサンタフェの高級売春宿のオーナーであるマリア・ゲルトルーディス・バルセロと違法な関係を持っているともうわさされた。 また、この期間中、彼はアメリカ人に対しての公有地の払い下げも熱心で、それまでに例のない、およそ9,700,000エーカー(39,000平方キロメートル)という面積の土地の払下げを承認した。 たとえば、1841年1月に、チャールズ・ボービエン (Charles Beaubien) とグアダルーペ・ミランダは、アルミホにサングレ・デ・クリスト山脈東部の土地1,741,764エーカー(7,048.67平方キロメートル)払い下げを申請し、チャールズ・ベント(後のニューメキシコ準州初代知事)はメキシコ市民権がないのにこの土地の一部を得ることができた。タオスのパドレ・マルチネスがこのことを知って強い抗議を行うと、アルミホはその夏の払い下げを取りやめた。後年、ボービエンが死んだとき、アルミホは土地の払い下げを取りやめたが、ボービエンの土地はその義理の息子であるルシアン・マクスウェルにそれを与えられた。 1843年に、テキサス共和国はサンタフェ出征に参加した人々を拘束したこと、およびメキシコによるテキサスへの軍事攻撃の報復のためにニューメキシコに軍隊を送った。この軍隊は200名ほどの規模だったが、遭遇したメキシコの先遣隊を撃破することに成功した。アルミホは500人ほどの軍隊を率いて140マイル(およそ230キロメートル)離れた場所でキャンプしていたが、その知らせを聞いて「仰天し、逃げた」。軍司令官の職も辞し、翌年には「健康上の理由」と称して総督も辞任してしまった。
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