第三期総督時代と米墨戦争
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「マヌエル・アルミホ」の記事における「第三期総督時代と米墨戦争」の解説
それでも、彼は1845年に三度目の総督職を任命された。翌年、米墨戦争が始まり、アメリカのスティーブン・カーニー将軍の率いる1,700名ほどの軍隊がニューメキシコ制圧のために派遣された。アルミホはこのことをサンタフェトレイルを通ってやってきたアメリカ人のビジネスパートナーから6月下旬には聞いて知っていた。アルミホは彼の持っていた事業の権利をこのアメリカ人に売却し、さらにその他の資産類の清算を始めた。 ミズーリ州のインデペンデンスから来たキャラバンから大量の武器弾薬を受け取った。8月4日に、カーニー軍が現在のコロラドとニューメキシコ間の州境を超えたころには、権限移譲の書面にサインし、後任者にすべてを委任した。8月8日に、ニューメキシコの人々に対して、侵入者を撃退するための準備を進めるように勧告する文書を作成した。 8月9日ごろ、アルミホは何人かの地元で尊敬されているニューメキシコ住民との会談を招集した。彼は戦いたくなかったが、出席した聖職者らはそうではなかった。常備軍の若い指揮官、ディエゴ・アルチュレータと若い民兵士官マニュエル・チャベスとミゲル・ピーノも戦うことを主張した。戦争を逃れた難民の話によると、あとの二人(チャベスとピーノ)がアルミホに銃を向けて脅さなければ、防衛に関しても何もしなかっただろうと思われている。それから8月12日または13日に、彼はジェームズ・マゴフィン (James Magoffin) という名のアメリカ人(アルミホの親類の夫で、アルミホに戦争を止めさせるよう説得したのは自分であると後日主張した)を迎えた。確認されてはいないが、マゴフィンは件の会議の人々を金で買収したとされ、後日マゴフィンは米国財務省にそれに要した金額として50,000ドルを請求し、30,000ドルを受け取った。 同じころ、一部のサンタフェ住民の間では、町にやってきたこのアメリカ人貿易商を殺害しようという話し合いがもたれていた。だがアルミホはこれを察知してやめさせ、また、アルチュレータを解任した。そうこうしながらも、サンタフェの戦いではアルミホは市街から南東に10マイル(およそ16キロメートル)ほど狭い道を通ったところにあるアパッチキャニオン (Apache Canyon) に陣地を構築した。しかし、アメリカ軍が視界に入ってもこちらからは撃たないことと決めた。ピーノ、チャベスおよび民兵の何人かが主張して、ようやく大砲を敵に向ける命令だけは発した。カーニー軍が一発も打つことなくサンタフェに入城しニューメキシコの占領宣言を行う前には、ニューメキシコ軍全員はサンタフェからいなくなっており、アルミホはチワワまで逃げた。 アルミホは、敵前で臆病になり職務放棄したとしてメキシコシティーにおいて裁判にかけられたが、無罪となった。メキシコシティー滞在中、チワワでスパイ容疑により捕まったマゴフィンに代わって仲裁人を務めた。 アルミホは、後年ニューメキシコに戻り、レミター (Lemitar) というところで晩年を過ごした。ソコロのサンミゲル教会の前の墓地に埋葬されている。
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