第七話 結城秀康とは? わかりやすく解説

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第七話 結城秀康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 13:44 UTC 版)

豊臣家の人々」の記事における「第七話 結城秀康」の解説

家康気まぐれで手をつけた侍女から生まれた次男於義丸は、出生後長く認知すらされず、不遇な境遇の中で成長した家康してみれば望んで生まれた子ではないた愛情などわかず、小牧・長久手の戦いの後に秀吉恭順すると、人質欲した秀吉の下にまるで放り捨てるように送り届けた於義丸は「秀康」の名を与えられ秀吉養子一人として養育されるが、長ずるに連れて余人稀な威厳が備わり、戦場出れば三軍指揮すら務まりそうな剽悍若者育った秀吉は秀康を可愛がり、やがて北関東名族結城氏名代継がせることにする。折しも新しく入封した関八州防衛上都合が良く家康諸手上げて賛意示しすが、その心内では秀康を恐れた嫡男信康死んでいる以上は徳川家相続者は本来秀康であるべきだったが、世子はすでに弟の秀忠決まっており、秀康が家を継ぐことはできない無論養子といって豊臣家家督を継ぐことは当然できない。その生い立ちのためか自尊心強く育ち自身への無礼決し許さず年少の身で家来手討ちにしたこともある秀康がこのような己の境涯満足しているとはとても思えず、家康はその自尊心を傷つけぬよう秀康と会う度に下にも置かぬ丁重な扱いをした。その後秀吉没し家康天下簒奪を謀って政情関ヶ原へと誘導し始める。世子秀忠上の手柄立てさせては家政乱れを招くという家康判断から秀康は後詰回されかねがね剛勇噂されたその武勇奮う機会訪れなかった。家康は秀康を恐れ続けた幼少の砌愛情をかけてやることもなく捨ておいたことを怨み、いつか秀忠害して徳川の家を奪うつもりではないかと常に危惧した巷間でもそのように見られ家康大坂攻める際には秀康が義弟の秀頼に味方するなどという流言まで流れた。しかしその機会はついに巡ってくることはなく、大坂の陣勃発する前に秀康は病に斃れて死ぬ。何事かなすであろう誰もが畏怖したこの男は、結局何をなすこともなく世を去った

※この「第七話 結城秀康」の解説は、「豊臣家の人々」の解説の一部です。
「第七話 結城秀康」を含む「豊臣家の人々」の記事については、「豊臣家の人々」の概要を参照ください。

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