第七話 結城秀康
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家康が気まぐれで手をつけた侍女から生まれた次男・於義丸は、出生後も長く認知すらされず、不遇な境遇の中で成長した。家康にしてみれば望んで生まれた子ではないため愛情などわかず、小牧・長久手の戦いの後に秀吉に恭順すると、人質を欲した秀吉の下にまるで放り捨てるように送り届けた。於義丸は「秀康」の名を与えられて秀吉の養子の一人として養育されるが、長ずるに連れて余人に稀な威厳が備わり、戦場に出れば三軍の指揮すら務まりそうな剽悍な若者に育った。秀吉は秀康を可愛がり、やがて北関東の名族結城氏の名代を継がせることにする。折しも新しく入封した関八州の防衛上都合が良く、家康も諸手を上げて賛意を示しすが、その心内では秀康を恐れた。嫡男の信康が死んでいる以上は徳川家の相続者は本来秀康であるべきだったが、世子はすでに弟の秀忠に決まっており、秀康が家を継ぐことはできない。無論、養子といっても豊臣家の家督を継ぐことは当然できない。その生い立ちのためか自尊心が強く育ち、自身への無礼は決して許さず年少の身で家来を手討ちにしたこともある秀康がこのような己の境涯に満足しているとはとても思えず、家康はその自尊心を傷つけぬよう秀康と会う度に下にも置かぬ丁重な扱いをした。その後秀吉が没し、家康は天下の簒奪を謀って政情を関ヶ原へと誘導し始める。世子の秀忠以上の手柄を立てさせては家政の乱れを招くという家康の判断から秀康は後詰に回され、かねがね剛勇と噂されたその武勇を奮う機会は訪れなかった。家康は秀康を恐れ続けた。幼少の砌に愛情をかけてやることもなく捨ておいたことを怨み、いつか秀忠を害して徳川の家を奪うつもりではないかと常に危惧した。巷間でもそのように見られ、家康が大坂を攻める際には秀康が義弟の秀頼に味方するなどという流言まで流れた。しかしその機会はついに巡ってくることはなく、大坂の陣が勃発する前に秀康は病に斃れて死ぬ。何事かなすであろうと誰もが畏怖したこの男は、結局何をなすこともなく世を去った。
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