第一章 美味の真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 02:22 UTC 版)
最初に人により美味や味の好みが異なることが、様々な歴史的事例から語られている。文王は菖蒲の漬物を好んでいた事、屈到は菱を好んでいた事、また曾子の父親で孔子の弟子でもあった曾晳は棗を好んで噛んでいた事が述べられている。またそれと同様に日本人もかつては牛肉を食べなかったので、西洋人が牛肉を食べる姿を嫌悪し、一方の西洋人も魚を生でたべる日本人を猫族ではないかと訝しがったという事例も述べている。 こうした好みの違いは、人によって、あるいは時代や文化によって様々であるが、それでも美味には共通したある範囲があることを示し、音楽や絵画を味わうように人は美味もまた同じように感覚によって共通して味うことができるものであることを示している。さらに木下謙次郎は「科学が客観的なデータを重視するのに対し、哲学は主観的な判断である直感に基礎がおかれているが、味覚も同じように感覚的判断を基礎としているという理由から、美味求真とは料理の哲学である」と述べて、美味求真とは抽象的で感覚的なものでありながらも、多くの人が共有する味覚の幅の中から食における真の味覚を追及することが可能であると論じている。 また「味を好む者」が必ずしも「味を理解する者」ではないとしている。大酒飲みや、珍食だけを求める者、偏食をする者は「味を理解する者」とは言えず、「味を理解する者」となるためには、すべてのものに美味の真を求めようとするべきであるとし、歴史的な「味を理解する者」を、中国には伊尹、易牙。ギリシャではアルケストラトス、ローマにはペトロニウス、そして日本には、昔は細川幽斎、西園寺公望をあげている。 また値段の高い低いで美味を評する間違いにも言及し、「味を理解する者」は値段が高ければ至味とするのではなく、また量が多く手に入りやすいからと言ってその本味を軽んずることもしないと述べている。
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