立法と社会教育・社会事業・関東大震災
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「穂積重遠」の記事における「立法と社会教育・社会事業・関東大震災」の解説
民法改正の要綱作成のために重遠は、親族編、相続編に種々の調査を提案した。重遠は平塚らいてう、高群逸枝などの運動家を支援した。また、弁護士法の改正(1933年)へ情熱を注ぎ、性別条件をなくした。「児童虐待防止法」(1933年)を制定したが、これは戦後に児童福祉法に吸収された。関東大震災時は、東京にいて無事であったが、親戚縁者の無事を確認して大学に向った。学生の証言によると、重遠も来て、情報局ができ、指導したという。救援活動の中から、「帝都震災火災系統地図」ができた。震災後の借地、借家調停の問題から、借地借家調停法ができ、重遠は日本橋区の調停を担当した。賀川豊彦らは、上野にセツルメントを作り、重遠は法律相談を積極的に引き受けた。彼はどちらかというと、人情・法学的にやわらかく包んでいく方で、常識的にやっていたようです、という記録がある。セツルメントの中に唱歌指導というのがあり、「このような平和なのどかな心地よいことは穂積先生の人柄の影響だろう」ともある。しかしセツルメントは左翼化して、1938年には関係学生が警視庁特高部に出頭を命ぜられて、重遠の承認を得て解散した。
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