立教大学体育会バスケットボール部とは? わかりやすく解説

立教大学体育会バスケットボール部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/18 11:22 UTC 版)

立教大学体育会バスケットボール部(りっきょうだいがくたいいくかい―)は立教大学体育会に所属するバスケットボールチームである。日本のバスケットボールの黎明期に各大学に先駆けて創部(1921年)され[1][2]関東大学バスケットボール連盟に所属する。新座キャンパスを拠点とする。

歴史

1922年のバスケットボール部

1913年(大正2年)に、アメリカからFranklin H. Brownが日本YMCA同盟の体育事業専門主事からの派遣要請に応えて来日すると、日本でのバスケットボール競技の本格的な伝播と普及活動が始まった。競技が移入された後の日本のバスケットボール競技はYMCAを中心に展開していく[1]

1921年(大正10年)、立教大学に日本の各大学に先駆けてバスケットボール部が創部[2]東京YMCAの体育主事であった立教大学の校友である西村がコーチに就任し[1]、当時立教大学予科生で東京YMCAでプレーしていた野村憲夫もスタッフに就き、初代部長は井出義行立教大学文学部教授)が務めた[2]築地から池袋への移転後の大学には体育館も出来ていたものの、2,3年の間は室内設備が未完成であったが、西村と野村憲夫の尽力により同年9月初旬に、体育館の室内設備が完成し、練習環境が整備された[1]。また同年、野村憲夫は東京YMCAの選手として上海で行われた第5回極東選手権大会に出場した[2]

1922年(大正11年)5月に、第2回全日本バスケットボール選手権大会東京女子高等師範学校(お茶の水女子高等師範)を会場に開催され、立教大学はB組に出場し、決勝では強敵の大阪YMCAを大接戦の末に破って優勝する。A組は日本の大学バスケットボール競技の基礎を創った東京YMCAが優勝。立教大学の優勝チームは、山内光和、佐々木権三郎、曽我、松崎一雄(後の立教学院理事長、森永商事社長)、野村久秀(後の高輪プリンスホテル支配人)、野村瞳、垣らで構成され、コーチには西村と野村憲夫に加えて横山が務めた。この大会で優勝したことから、大学当局と学友会が大いに戦勝を祝すなどの盛り上がりを見せ、同年10月には大学体育会への加盟が認められ、秋には関西遠征を行った[1][3]

1923年(大正12年)、大阪で開かれた第6回極東選手権大会に、YMCAと立教大学の選抜チームで参加。同年9月1日には、関東大震災により東京YMCA体育館が焼失するが、同年に行われた東京市震災復興大会で立教大学は優勝する[2]

1924年(大正13年)、全日本学生籠球連合(現関東大学バスケットボール連盟)発足に参加。同年に開催された第1回関東大学リーグ戦(立大、商大早大)で初優勝すると、同年の全日本総合選手権でも初優勝を果たした[2]。同年12月から上海遠征を行い、姉妹校である聖ヨハネ大学(セント・ジョンズ大学)と対戦[注釈 1]。バスケットボール部は、1925年(大正14年)の第2回関東大学リーグ戦(立大、商大、早大、中大)でも優勝すると、第4回関東大学リーグの同率優勝を挟み、第6回から第8回まで3連覇するなど強豪としての地位を確立し、第15回から第18回にかけても4連覇を果たした[2]。その間、1927年(昭和2年)に上海で開催された第8回極東選手権大会には、立教大学と商大の選抜チームで参加し、監督は松崎一雄が務めた[2]

戦後も1950年代から60年代にかけてオールジャパン4回、インカレ6回制覇の黄金時代を築いた。

しかし、その後は長い低迷に入り、2005年には4部まで陥落。現在は2部に所属。

獲得した全国タイトルは、日体大に次ぐ歴代第2位の計13回(オールジャパン7回・インカレ6回)である。

主な成績

主な卒業生

  • 秋吉恒俊 - 元バスケットボール日本代表監督
  • 荒井利一 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 大島康邦 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 海保宣生 - 元オリンピックバスケットボール日本代表、鹿島アントラーズ・エフ・シー元常務取締役
  • 金川英雄 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 小宮宗勝 - 元バスケットボール日本代表
  • 紺野仁 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 斎藤博 - 元オリンピックバスケットボール日本代表、元バスケットボール日本代表コーチ
  • 東海林周太郎 - 元オリンピックバスケットボール日本代表、元バスケットボール日本代表監督
  • 杉山武雄 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 張利鎮 - 元オリンピックバスケットボール日本代表、元オリンピックバスケットボール韓国代表
  • 冨山晋司 - バスケットボール指導者、バスケットボール日本代表テクニカルスタッフ、千葉ジェッツ元ヘッドコーチ
  • 奈良節雄 - 元オリンピックバスケットボール日本代表、元バスケットボール日本代表コーチ
  • 野村久秀 - 元極東選手権競技大会(極東オリンピック)バスケットボール日本代表
  • 梅勝夫 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 服部信雄 - 元オリンピックバスケットボール日本代表
  • 前田昌保 - 元オリンピックバスケットボール日本代表、元バスケットボール日本代表コーチ
  • 松崎一雄 - 元立教学院理事長、森永商事社長、森永製菓副社長
  • 三浦正 - 元バスケットボール日本代表監督
  • 吉田正彦 - 元バスケットボール日本代表、元バスケットボール日本代表監督

外部リンク

脚注

注釈

  1. ^ 上海遠征は1924年12月から翌年1月にかけて実施され、オールホワイト、上海大学、上海アメリカンスクールとも交流試合を行った[4]

出典

  1. ^ a b c d e 小谷 究「日本の大学における体育会バスケットボール部の成立過程に関する研究」『運動とスポーツの科学』第24巻第1号、一般社団法人 日本運動・スポーツ科学学会、2018年、9-18頁、ISSN 2435-9912 
  2. ^ a b c d e f g h 『沿革/創部1921年~2022年表』 チーム紹介,立教大学男子バスケットボール部
  3. ^ 『ムサシノ,第1号』 立教大学,1922年(大正11年)10月15日
  4. ^ 『立教大学新聞 第10号』 1925年(大正14年)1月20日




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