野村久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/17 02:15 UTC 版)
野村 久秀(のむらひさひで、生没年不詳)は、日本の実業家、バスケットボール選手。高輪プリンスホテル支配人を務めたほか、立教大学時代にはバスケットボールの日本代表として極東選手権競技大会(極東オリンピック)で活躍した[1][2]。
人物・経歴
静岡県出身。旧制沼津中学校(静岡県立沼津東高等学校の前身)に入学。同校では野球部に入り、4番打者として活躍し、ポジションはセンターや捕手を務めた。野村は、親には内緒で野球に没頭し、スパイク代も親を騙して捻出した[1]。
同校卒業後、立教大学へ入学しバスケットボール部に入部[1]。
1922年(大正11年)5月には、第2回全日本バスケットボール選手権大会が東京女子高等師範学校(お茶の水女子高等師範)を会場に開催され、立教大学はB組に出場し、決勝では強敵の大阪YMCAを大接戦の末に破って優勝した。立教大学の優勝チームは、野村久秀のほか、山内光和、佐々木権三郎、曽我、松崎一雄(後の立教学院理事長、森永商事社長)、野村瞳、垣らで構成された。A組は日本の大学バスケットボール競技の基礎を創った組織である東京YMCAが優勝した。立教大学はこの大会で優勝したことから、大学当局と学友会が大いに戦勝を祝すなどの盛り上がりを見せ、同年6月頃に各大学に先駆けて正式にバスケットボール部が発足することとなり、同年10月には大学体育会への加盟が認められた[3]。
優勝の背景として、立教大学では前年の1921年(大正10年)に、東京YMCAにいた立教大学の校友の西村をバスケットボール部のコーチに招聘し、強化を進めた成果があった。加えて、築地から池袋へ移転後、大学に体育館が出来たものの、2,3年の間は室内設備が未完成だったところ、当時立教大学予科生で東京YMCAでプレーしていた野村憲夫と東京YMCAの西村らが整備に尽力し、同1921年(大正10年)9月初旬に完成し、野村憲夫を大将として競技部の有志5,6名が集まって、練習を開始したことがあった[3]。
1922年(大正11年)、野村久秀は極東選手権競技大会(極東オリンピック)の日本代表選手となる[1]。
1926年(大正15年)、立教大学商学部を卒業[2][4]。
その後、高輪プリンスホテルに入社し、同ホテル支配人を務めた[2][4]。
脚注
- ^ a b c d 『沼津中学野球部々史抄録』 中川和郎,三島出身者の足跡と活躍2 文芸三島第59号より,小野建設株式会社
- ^ a b c 『立教大学新聞 第175号』 1960年(昭和35年)1月10日
- ^ a b 小谷 究「日本の大学における体育会バスケットボール部の成立過程に関する研究」『運動とスポーツの科学』第24巻第1号、一般社団法人 日本運動・スポーツ科学学会、2018年、9-18頁、ISSN 2435-9912。
- ^ a b 『立教大学新聞 第194号』 1961年(昭和36年)12月15日
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