立川文庫の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 立川文庫の時代の意味・解説 

立川文庫の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/13 09:02 UTC 版)

立川熊次郎」の記事における「立川文庫の時代」の解説

1909年明治42年)、社を大阪市東区博労町現在の市中央区博労町)に移転する1911年明治44年)、小型四六判の「講談文庫本出版企画携えた講談師玉田玉秀斎山田阿鉄山田酔神)が26日毎日交渉現れ立川は6か条の覚書取り交わす条件下で企画呑む覚書は「新作であること」「分量は、1冊あたり20字詰20原稿用紙300」「原稿料は、1冊14円、原稿用紙作者負担」「定価25銭」「売上の悪い作者休養」「版権立川文明堂のもの」との旨であった。同企画は、玉秀斎講釈する講談を、阿鉄、その弟の山田唯夫を始めとする「日吉講談本製造工場」のメンバー集団執筆するというものであった同年10月、『立川文庫第一諸国漫遊 一休禅師』を発売する第2篇諸国漫遊 水戸黄門』、第4篇荒木又右衛門』、第6篇『岩見重太郎』、第9篇『宮本武蔵』連打し爆発的な好評呼んだ。またこのころ義兄井上寅之助の長男井上文成井上進堂設立するのを支援する1913年大正2年12月20日、『立川文庫第四十編 真田三勇士 忍術名人 猿飛佐助』を発売マンネリ打破するとともに、「猿飛佐助」のキャラクター誕生させた。『猿飛佐助』の人気すさまじく、翌1914年大正3年2月15日には「復刻版」が出ている。 1923年大正12年)、社を同市南区安堂寺橋通(現在の市中央区南船場)に移転する1919年大正8年)には玉秀斎亡くなっており、「立川文庫」は収束方向向かった。「立川文明堂」の事業は、実弟立川経営参加させ、学習参考書教科書出版シフトした。 1932年昭和7年1月9日死去した。満53歳没。

※この「立川文庫の時代」の解説は、「立川熊次郎」の解説の一部です。
「立川文庫の時代」を含む「立川熊次郎」の記事については、「立川熊次郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「立川文庫の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「立川文庫の時代」の関連用語

立川文庫の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



立川文庫の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの立川熊次郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS