立川文庫の時代
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1909年(明治42年)、社を大阪市東区博労町(現在の同市中央区博労町)に移転する。1911年(明治44年)、小型四六判の「講談文庫本」出版企画を携えた講談師玉田玉秀斎と山田阿鉄(山田酔神)が26日間毎日交渉に現れ、立川は6か条の覚書を取り交わす条件下で企画を呑む。覚書は「新作であること」「分量は、1冊あたり20字詰20行原稿用紙で300枚」「原稿料は、1冊14円、原稿用紙は作者負担」「定価は25銭」「売上の悪い作者は休養」「版権は立川文明堂のもの」との旨であった。同企画は、玉秀斎が講釈する講談を、阿鉄、その弟の山田唯夫を始めとする「日吉屋講談本製造工場」のメンバーが集団で執筆するというものであった。同年10月、『立川文庫第一編 諸国漫遊 一休禅師』を発売する。第2篇『諸国漫遊 水戸黄門』、第4篇『荒木又右衛門』、第6篇『岩見重太郎』、第9篇『宮本武蔵』と連打し、爆発的な好評を呼んだ。またこのころ、義兄井上寅之助の長男井上文成が井上盛進堂を設立するのを支援する。1913年(大正2年)12月20日、『立川文庫第四十編 真田三勇士 忍術名人 猿飛佐助』を発売、マンネリを打破するとともに、「猿飛佐助」のキャラクターを誕生させた。『猿飛佐助』の人気はすさまじく、翌1914年(大正3年)2月15日には「復刻版」が出ている。 1923年(大正12年)、社を同市南区安堂寺橋通(現在の同市中央区南船場)に移転する。1919年(大正8年)には玉秀斎が亡くなっており、「立川文庫」は収束の方向に向かった。「立川文明堂」の事業は、実弟の立川捨蔵に経営参加させ、学習参考書・教科書出版にシフトした。 1932年(昭和7年)1月9日、死去した。満53歳没。
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