稲盛和夫の体験した隠れ念仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:20 UTC 版)
「隠れ念仏」の記事における「稲盛和夫の体験した隠れ念仏」の解説
浄土真宗は一向宗と呼ばれるも、薩摩藩によって禁止令が出された江戸時代には弾圧され続け、後に徹底した廃仏毀釈も行われた薩摩藩では、長いこと密かに隠れ念仏が続いていたこともあり、鹿児島県では昭和に入ってからも隠れ念仏を続けていた地域もあった。鹿児島県生まれで、京セラの名誉会長でもある稲盛和夫は、4歳か5歳だった昭和12年(1937年)頃に自身が体験した隠れ念仏の信仰について語っており、「弾圧からの逃避ではなく、これを守り続けてきた信者同士を結びつける繋がりを確認し、宗教心を強固にするため引き継がれていた。信仰の篤い人たちによって密かに守りつづけられた宗教的習慣で、私が幼い頃には、まだその習わしが残っていたものと思われる」と語っている。西本願寺もあったにも関わらず、その頃はまだ隠れ念仏が色濃く残る地域だった小山田には、稲盛の父方にあたる祖母が住んでおり、そこで伝統として行われていた、子供たちに仏の南無阿弥陀仏という感謝の念を教えるための通過儀礼に参加するため、幼い稲盛は父に連れられ日没後、「静かにしておれ、声を出したらいかん」と言われ無言で、暗い山道を神秘的で恐ろしいような思いをしながら、提灯の灯りを頼りに父親の後を必死で付いていき、他にも隠れ念仏の信者である何組かの親子が、親が子の手を引き登っていく中、村はずれにある登った先の小さな山小屋のような一軒家に連れて行かれる。そこは、中に入ると小さなロウソクが数本灯っているだけで家はひどく暗く、奥まった押入れの中に立派な仏壇が置かれており、その前で袈裟を着た僧侶らしき老人が一人、座って静かに低い声でお経を上げていた。子供たちはその後ろに正座させられ、お経が終わると、全部で4、5人いた子供は並ばされ、一人ずつ仏壇に線香を上げて拝むよう指示される。僧侶らしき老人は1人ずつ短い言葉をかけ、稲盛の父には「ああ、この子はもう連れてこなくていいですよ。今日のお参りで済んだから、明日から朝と晩、仏壇に向かって、なんまんだ、なんまんだ、ありがとうと必ず唱え仏さんに感謝しなさい。生きている間それさえすれば、仏さんが守ってくれるから」と告げ1回でお墨付きを与え、幼い稲盛には、それが免許皆伝と認められたような、何かの試験に合格したような気がして、誇らしくも嬉しく感じたが、中には「この子はまた来週も連れてきてください」と言われた子供もいたという。
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