科学に関する手稿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:48 UTC 版)
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の記事における「科学に関する手稿」の解説
レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドはラテン語や数学の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。レオナルドは1495年に修道士・数学者のルカ・パチョーリの数学書『スムマ』を購入しており、1496年にはパチョーリとミラノで出会い、彼のもとで数学を学ぶ。1509年に出版されることになるパチョーリの著書『神聖比率(英語版)』の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた解剖学を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論』、ウルビーノ手稿(英語版)とも呼ばれる)として出版された。1724年にはドイツでも出版されている。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者フリッチョフ・カプラのようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世のガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンといった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、特に絵画と一体化したものだったと主張している。
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