票割れの歴史的な例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 04:58 UTC 版)
1912年アメリカ合衆国大統領選挙において、共和党が現職大統領のウィリアム・タフトと元大統領のセオドア・ルーズベルト(進歩党を結成)に分裂したため民主党のウッドロウ・ウィルソンが一般選挙での得票率42%ながら大統領に選出された。 1925年ドイツ大統領選挙において、第一回投票で過半数を得る者がなかったため第二回投票が行われ、共産党が第一回投票で得票率7%で4位に終わったエルンスト・テールマンを第二回にも立候補させたことで中間派・左派勢力の票が割れ、社会民主党などが擁立したヴィルヘルム・マルクスが右派が擁立したパウル・フォン・ヒンデンブルクに敗れた。 1987年に盧泰愚が大韓民国大統領選挙に36%の得票率で勝利した。二人の主なライバル候補である金泳三と金大中が票を割ったからである。 1992年と1996年のアメリカ合衆国大統領選挙において、スポイラー候補のロス・ペローは、ジョージ・H・W・ブッシュ(1992年)と、ボブ・ドール(1996年)の票を割り、民主党候補のビル・クリントンに勝利をもたらしたとされる。同じように2000年には、スポイラー候補者のラルフ・ネーダーが民主党候補のアル・ゴアの票を食い、共和党候補のジョージ・W・ブッシュの勝利に貢献したと考えられている。 2000年の台湾の総統選挙において、国民党を去った宋楚瑜は、国民党の連戦に対して無所属で立候補した。これは国民党に投じられた票を割り、民進党候補の陳水扁に勝利をもたらした。台湾の歴史上で初めて国民党が負け、野党になったときである。 2002年のフランス大統領選挙において、左翼票が社会党と他の小政党の間で分裂した。左翼候補で最上位のリオネル・ジョスパンが三位に落ち、右翼候補のジャック・シラクとジャン=マリー・ル・ペンによる決選投票を引き起こした。決選投票に進んだ二候補の第一回投票における得票率は、合計しても40%未満であった。 2004年フィリピン大統領選挙において、グロリア・アロヨの大統領職に反対する候補の票が四つに割れたので、アロヨの勝利を許した。野党の候補には俳優のフェルナンド・ポー・ジュニアがいたが、パンフィロ・ラクソンが一本化を拒みフィリピン民主の闘いの候補として出た。 2012年エジプト大統領選挙において二人の候補者が決選投票に進んだ。自由と公正党のムハンマド・ムルシー候補(24.8%)と、無所属のアフマド・シャフィーク候補(23.7%)である。それぞれ他の候補者より多くの票を得たが、尊厳党のハムディーン・サッバーヒー候補(20.7%)、無所属のアブドルモネイム・アブールフトゥーフ候補(17.5%)、無所属のアムル・ムーサ候補(11.1%)よりも実際に人気があることを証明するのに十分な票は獲れなかった。 カナダのリベラル票は現在、新民主党とカナダ自由党で割れている。これは2006年、2008年、2011年の直近三つの選挙でのカナダ保守党の勝利を許した。
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