社会主義リアリズムの国家による採用
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「社会主義リアリズム」の記事における「社会主義リアリズムの国家による採用」の解説
1930年代に入り革命後の混乱がおさまり、社会主義国家の建設が軌道に乗り始めた頃、労働者や農民出身の新しい芸術家たちが出現し、革命以前からの知識人や芸術家らも国家の理想とする「プロレタリア芸術」表現を支持する側に回った。これら二つの芸術家の流れを一つにまとめ上げ、社会主義国家の発展のために一人でも多くの労働者大衆を芸術を通じて社会主義建設に目覚めさせ、鼓舞しなければならないという政治主導的な芸術への動きが強まっていった。 労働者階級にある一般大衆にわかりやすく世界の「現実」に対する目を開かせ、革命や社会建設のために働く労働者を鼓舞するような芸術をつくるべく、1932年のソ連共産党中央委員会は芸術団体の国家による一元化を決定した。その年の秋、スターリンは作家たちとの懇談のなかで「社会主義リアリズム」の表現方針を提唱し、あらゆる芸術分野の大会で公式に採用されるに至った。 その表現方針は 現実を、社会主義革命が発展しているという認識の下で、空想的ではなく現実的に、歴史的具体性をもって描く 芸術的描写は、労働者を社会主義精神に添うように思想的に改造し教育する課題に取り組まなければならない この方針は過去にさかのぼって解釈され、帝政ロシア時代に書かれたゴーリキーの『母』のような作品も、社会主義リアリズムのさきがけだったとして扱われるようになった。多くの労働者大衆を引きつけるため、作品の娯楽性にも注意が払われた。 当時、多くの国の急進的思想の人々のあいだで、ソ連に続き自国でも社会主義リアリズム芸術を推進させることで、世界のプロレタリアが革命に結集するようになるのではないかという声が高まった。
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