社会主義ユーゴスラビアとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:17 UTC 版)
「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の記事における「社会主義ユーゴスラビアとの関係」の解説
「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」も参照 フェイヤーによると、「戦争が終わる前にさえ、ティトーはウスタシャに対し報復を始めており、それはカトリック教会とウスタシャの近い関係を理由にカトリック教会を敵視するものだった」。ティトーのパルティザンは認定されたか実際のウスタシャへの協力を理由にカトリックの聖職者に復讐した。1945年2月までに少なくとも14人の司祭が、同年3月までに160人に司祭が、同年末までに270人の司祭が殺害された。カトリック教徒の小説家イーヴリン・ウォー(彼は戦後にクロアチアを訪問した)によると、「実際に彼らに協力するまでには至らないが、聖職者達は全体として枢軸国寄りのウスタシャを黙認する事で疑い無く教会の立場を危うくしたという点で、パルティザンの任務は簡単になった」という。フランシスコ会は格別にパルティザンの攻撃対象とされ、15のフランシスコ会の修道院が破壊された。 この意味では、当時の状況はバチカンの共産主義の東欧に対する通常の接し方(Vatican and Eastern Europe (1846–1958))の小宇宙だった。ピウス12世はティトーへの使節としてアメリカ人司教ジョセフ・パトリック・ハーリー(Joseph Patrick Hurley)を送った(ハーリーは「修道会員」という肩書きを持っていて、これは一歩下がった外交承認だった)。ティトーはステピナツ大司教をローマに呼び戻すことを要求し、教皇はステピナツ本人に任せ、ステピナツは留まることを選んだ。
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