磐田市での導入史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:14 UTC 版)
1927年(昭和2年)頃、磐田郡豊田町(旧井通村、現磐田市)役場の農事監督官であった熊谷一郎が、昭和の不況対策のための新作物として導入した。まず、豊田町気子島地区の農家によって試作され、1931年に出荷組合によって生産販売の基礎がつくられた。当時、この出荷組合は気子島部落の約50戸で構成され、作ったエビイモを大阪や京都、東京の問屋に出荷し、これらは10キログラムで1万円相当で取引されていた。 その後、気子島地区がエビイモ栽培によって高収入をあげていることが竜洋町豊岡(旧掛塚町)に伝わると、1938-39年にかけて竜洋町農業協同組合の組合長・伊藤弘がこれを栽培、良好な成績を得たのをきっかけに、この地域におけるエビイモ栽培が大きく発展した。1945年以降、同じ土壌条件である磐田市寺分や、豊岡村広瀬地区にも急速に普及し、磐田市はエビイモの一大産地として定着した。 豊岡村では、天竜川上流に佐久間ダム・秋葉ダムが完成したことから、洪水の心配が少なくなった昭和30年代初めに、本格的に栽培されるようになった。 当初は養蚕の後退に伴う桑に変わる転作作物として導入されたものであったが、昭和30年代半ばになると本場の京都や大阪周辺といった近畿地方のエビイモ産地が次々と住地化されていったため、中遠地方が主産地となり現在に至っている。
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