碑表面とは? わかりやすく解説

碑表面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:38 UTC 版)

一勇斎歌川先生墓表」の記事における「碑表面」の解説

一勇斎歌川先生墓表先生国芳号一勇斎又号朝桜楼主井草氏称孫三江戸人以寛政丁巳十一月十五日生於銀街第一文久辛酉三月五日没於新和泉街享歳六十五葬浅草八軒街大僊寺考□」屋吉右衛門柏谷先生幼而聡慧七八歳好見絵本愛□」北尾重政所画武者二巻同政美諸職画鑑二巻頓悟画人□」十二歳時鐘馗提剣図其状貌壮行筆秀勁如老成者当是」之時一陽歌川豊国所謂浮世絵師巨擘而名於時嘗見此」図大竊歎賞以為不易得之才称揚特厚先生遂為之弟子研窮」有年先是豊国之門有国国長国満国安国丸国次国直等□」子皆於絵事許称歌川氏受之偏名国字於是歌川画技伝□□」鄙豊国既没数子前後相継彫落殆尽先生與国済美斎名□」霊光巍然長存其業雁行国貞巧於閨房美人仕女婉淑之□」先生長於軍陳名将勇士奮武之図雖嬰孩童無不知其声□□」先生斎藤氏二女長名早世名吉田口其英以為□」先生梅屋鶴寿情交尤密恰如兄弟鶴寿賛成其業四十年□」如一日可謂真友今茲癸酉正当十三年忌辰其門人及其英」相謀為追会以余與先生有旧請製碍文而墓石有限不得䌤」縷以余之所識塞其責云」 明治六年癸酉十月 友人 東条信耕撰」 萩原翬書并篆額 宮亀年鐫 (読み下し文一勇斎歌川先生墓表 先生、諱は国芳、一勇斎と号す。又、朝桜楼主人と号す。井草氏。孫三郎と称す江戸の人。寛政丁巳十一月十五を以て銀街(しろがねちょう)第一坊に生れ文久辛酉三月五日新和泉街に没す。享歳六十五。浅草八軒街大僊寺に於いて葬る。考は柳屋右衛門、妣は柏谷氏。先生、幼にして聡慧、僅か七、八歳にして好んで絵本を見、北尾重政画する所の武者二巻、同政美の諸職画鑑二巻愛玩し人物画く頓悟す。 十二歳の時、鐘馗提剣図を画く其の状貌は猛壮、行筆は秀勁にして老成者の如し。この時に当り一陽豊国所謂浮世絵師の巨摯にして時に名あり嘗てこの図を見、大い竊か歎賞して以為(おもへらく)、得(え)易からざるの才なりと。称揚特に厚し先生遂にこの弟子となり、研窮すること有年。 これより先、豊国の門に国政国長、国満、国安、国丸、国次国直等数子あり、皆絵事に於いて歌川氏を称するを許さる。これを受け、偏へに国の字を名のる。ここに於いて歌川画技都鄙伝播す。 豊国既に没し数子も前後相継いで凋落し殆んど尽く先生国貞とは済美斉名、霊光の若(ごと)く巍然として長存す。其の業は雁行し、国貞閨房美人、仕女婉淑の像に巧みで、先生は軍陳の名将勇士奮武の図に長ず嬰孩えいがい)童と雖もその声価を知らざる者無し先生斎藤氏を娶り二女生む。長、名は早世し、次、名は吉、田口其英に配し以て嗣となす。先生梅屋鶴寿情交密にて恰(あたか)も兄弟如し鶴寿その業に賛成し四十も亦一日如し真の友といふべし。今茲癸酉正に十三年の忌辰当る。その門人及び其英、相謀りて追会をなす。余、先生と旧請有るを以て碣文を製す。而るに墓石限り有りて䌤縷を得ず。余の識る所を以てその責めを塞ぐ明治六年癸酉十月 友人 東條信耕撰 萩原翬書并篆額 宮亀年鐫

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