碑表面
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[一勇斎歌川先生墓表]先生諱国芳号一勇斎又号朝桜楼主人井草氏称孫三郎江戸」人以寛政丁巳十一月十五日生於銀街第一坊文久辛酉三月」五日没於新和泉街享歳六十五葬於浅草八軒街大僊寺考□」屋吉右衛門妣柏谷氏先生幼而聡慧僅七八歳好見絵本愛□」北尾重政所画武者鞋二巻同政美諸職画鑑二巻頓悟画人□」十二歳時画鐘馗提剣図其状貌猛壮行筆秀勁如老成者当是」之時一陽斎歌川豊国所謂浮世絵師之巨擘而名於時嘗見此」図大竊歎賞以為不易得之才称揚特厚先生遂為之弟子研窮」有年先是豊国之門有国政国長国満国安国丸国次国直等□」子皆於絵事許称歌川氏受之偏名国字於是歌川画技伝□□」鄙豊国既没数子前後相継彫落殆尽先生與国貞済美斎名□」魯霊光巍然長存其業雁行国貞巧於閨房美人仕女婉淑之□」先生長於軍陳名将勇士奮武之図雖嬰孩童無不知其声□□」先生娶斎藤氏生二女長名鳥早世次名吉配田口其英以為□」先生與梅屋鶴寿情交尤密恰如兄弟鶴寿賛成其業四十年□」如一日可謂真友矣今茲癸酉正当十三年忌辰其門人及其英」相謀為追薦会以余與先生有旧請製碍文而墓石有限不得䌤」縷以余之所識塞其責云」 明治六年癸酉十月 友人 東条信耕撰」 萩原翬書并篆額 宮亀年鐫 (読み下し文) 一勇斎歌川先生墓表 先生、諱は国芳、一勇斎と号す。又、朝桜楼主人と号す。井草氏。孫三郎と称す。江戸の人。寛政丁巳十一月十五日を以て銀街(しろがねちょう)第一坊に生れ、文久辛酉三月五日新和泉街に没す。享歳六十五。浅草八軒街大僊寺に於いて葬る。考は柳屋吉右衛門、妣は柏谷氏。先生、幼にして聡慧、僅か七、八歳にして好んで絵本を見、北尾重政画する所の武者鞋二巻、同政美の諸職画鑑二巻を愛玩し、人物を画くに頓悟す。 十二歳の時、鐘馗提剣図を画く。其の状貌は猛壮、行筆は秀勁にして老成者の如し。この時に当り、一陽斎豊国は所謂浮世絵師の巨摯にして時に名あり。嘗てこの図を見、大いに竊かに歎賞して以為(おもへらく)、得(え)易からざるの才なりと。称揚特に厚し。先生遂にこの弟子となり、研窮すること有年。 これより先、豊国の門に国政、国長、国満、国安、国丸、国次、国直等数子あり、皆絵事に於いて歌川氏を称するを許さる。これを受け、偏へに国の字を名のる。ここに於いて歌川の画技都鄙に伝播す。 豊国既に没し数子も前後相継いで凋落し殆んど尽く。先生と国貞とは済美斉名、魯霊光の若(ごと)く巍然として長存す。其の業は雁行し、国貞は閨房美人、仕女婉淑の像に巧みで、先生は軍陳の名将勇士奮武の図に長ず。嬰孩(えいがい)童と雖もその声価を知らざる者無し。 先生、斎藤氏を娶り二女を生む。長、名は鳥、早世し、次、名は吉、田口其英に配し、以て嗣となす。先生、梅屋鶴寿と情交尤密にて恰(あたか)も兄弟の如し。鶴寿その業に賛成し、四十年も亦一日の如し。真の友といふべし。今茲癸酉は正に十三年の忌辰に当る。その門人及び其英、相謀りて追薦会をなす。余、先生と旧請有るを以て碣文を製す。而るに墓石限り有りて䌤縷を得ず。余の識る所を以てその責めを塞ぐ。 明治六年癸酉十月 友人 東條信耕撰 萩原翬書并篆額 宮亀年鐫
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