県会議員へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 04:57 UTC 版)
市議として在任中であった1931年(昭和6年)、鈴木は3月に松浦を、6月に父を相次いで喪った。ところが時を同じくして、政友会県支部が静岡県会選挙への立候補を鈴木に打診した(当時の選挙法では市議と県議の兼務が認められていた)。傷心の鈴木は当初この申し出を固辞していたが、妻子の勧めもあり、静岡市選挙区からの立候補を決意した。そして、10月14日に6候補者中3位の得票数で当選した。4名の当選者は鈴木の他は皆立憲民政党候補であり、県会全体でも、政友会は第一党ではあったが過半数を占めてはいなかった。このため政友会幹部は中立会派との協調により勢力の保持を狙ったが、鈴木はこれを理念なき譲歩であると批判し、ここでも非主流派にまわっている。 県議としての鈴木の活動は、市議時代とは変わって極めて活発なものであった。特に鈴木は自らの専門分野である警察行政について多くの質問を行い、県下で横行する令状なしでの逮捕、勾留について、人権蹂躙行為であると鵜沢憲知事を追及した。その後も鈴木は1935年(昭和10年)、1939年(昭和14年)と県会への再選を重ね、1942年(昭和17年)11月には県会議長に就任した。1939年には母を亡くしたが、同年に三女の清子(長じて童話作家となる)を儲けている。 戦況の激化に伴って大政翼賛会が設立されると、鈴木は翼賛会静岡県支部の事務局庶務部長に就任し、静岡市における国民義勇隊の組織化にも重要な役割を果たした。しかし翼賛体制に協力する一方で、鈴木は影響力を増そうとする地元の軍閥とは対立関係にあったという。また、静岡への空襲被害が激しくなった頃には、敗戦気分を煽るとして疎開を禁じる軍部の指令を無視し、自らは静岡に留まりながら市民の疎開を強行した。
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