相次ぐ争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 00:14 UTC 版)
7代小山貞朝は執権・北条貞時より偏諱を受けたとされるが、元弘の乱で討死した。元弘3年(1333年)、8代小山秀朝は新田義貞の討幕の挙兵に際しては幕府から寝返って討幕派となり、義貞に従って鎌倉攻撃に参加し立場を安堵された。建武の新政が始まると、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任することを認められ、小山氏の持つ平安時代以来の権益を認められた。建武2年(1335年)、北条時行の中先代の乱が起きると秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣したが、北条時行軍と戦って敗れ秀朝は自害して果てた。 秀朝の死後、嫡男の朝郷(朝氏)が家督を相続するが、幼少であり、秀朝の自害の際に多くの家臣がともに自害したため、小山氏の勢力は急速に縮小した。下野国守護職に任じられ、下野国をはじめとする関東の北朝方として活動したが、関東では南朝についた同族の結城宗広らが優勢であり、建武4年(1337年)、小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落、朝郷は捕らえられた。結城宗広の助命嘆願と北畠顕家の温情によって許されたが、朝郷の活動の記録はその後も残るものの目立った活躍は見られない。 朝郷の後は、弟と思われる小山氏政が家督を継いた。そのころ、室町幕府内部では足利尊氏と足利直義の兄弟の不和が大きくなり、ついに観応2年(1351年)、観応の擾乱が起こった。氏政もそのなかで直義方の多い関東にあって尊氏に味方したが、多くの下野国の武士が小山氏ではなく、同じ下野の名族の宇都宮氏の当主宇都宮氏綱に従ったのである(ただし、これは『太平記』によるもので、同じ時代を扱っている『源威集』では小山氏政が多勢を率いる将として先陣に推挙される場面があり、後述の守護補任の問題とともに検討を要する問題である)。
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