発見と受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 13:01 UTC 版)
動物学者・岡田弥一郎は1935年3月12日から4月8日まで、沖縄県内の動物分布調査を実施した。岡田らは伊江島にて小学校教員・上里吉堯が島の北海岸で採集したシカ化石を見せてもらった。現場で発掘作業を行った岡田らは化石資料を東京に持ち帰り、古生物学者の徳永重康に提供した。徳永は翌年8月に伊江島を訪問し、上里の協力のもと多数のシカ化石を発掘した。徳永はそれらのなかに両端が叉状に加工されたもの、人為的加工により穴が開けられたものなどがあることを確認し、学界に報告した。当時日本に旧石器文化は存在しないと考えられており、徳永の見解はその常識を覆すものであったものの、英文誌での報告だったこと、石器の出土が伴わなかったことなどから、同報告は戦前までほとんど注目されなかった。三宅宗悦は徳永の収集した資料を実見したものの、咬傷痕ではなさそうだが旧石器時代の遺物とただちには断定しがたいと述べるに留まった。 徳永とともに化石整理を行った直良信夫は1954年、『琉球伊江島の半洞窟遺跡』と題する論文で同発掘での出土内容を再報告した。直良は同報告において、先端が叉状に加工された管骨を「叉状骨器」と命名した。直良によるこの再報告は、1949年の岩宿遺跡発見により、日本にも旧石器時代が存在したことが確実となった趨勢を受けてのことだった。その後、同様のシカ化石骨角製品が山下町第一洞穴遺跡などで発見されたこともあり、叉状骨器をはじめとする骨角器は沖縄の旧石器時代を特徴づける人工物として認識されるようになった。叉状骨器はその形状から、動物を解体したり、皮をなめしたりするために使われていたと想定された。直良信夫は 「叉状骨器はおそらく利器の一種であろう」 との見解を述べた。當真嗣一は漁労用のヤスであると考え、想像図を付けてその利用法を示した。
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